強盗殺人事件で裁判員務めた女性、「急性ストレス障害」と診断
というニュースを見た。
選抜された民間人を審理に参加させ裁判をより身近な物にするために設けられた裁判員制度によるものだが、
やはり衝撃的映像等は心身によろしくない。
以前、武装テロ組織に捉えられ斬首された日本の若者の映像や、某大陸国家で胎児をスープにして飲んでいる等の画像を見たことがあるが、
胸くそが悪くて二度と再び決して見ようとは思わなかった。
現実に眼を背けている、という主張もあるだろう。
しかしそれはどうかと私は思う。
禅僧の一休は髑髏を持ち歩き、人はいずれ死ぬ、と主張して回ったそうだが、そのようなことは敢えて露骨に誰の物か分からない頭蓋骨を用いてまで訴えるようなことではない。
人が内心に悟ればよいことであって、外的に強要され得べき物ではないと思う。
親子が仲良く歩いている姿を見れば、微笑ましい、と思うのが普通だと思うが、穿った見方の持ち主は父母の男女の営みがあって、子供がいるのだ、などと解説するかもしれない。真実だが、敢えてそのようなことを言う必要はどこにもない。
大智度論に載っているそうだが、象の話をご存じだろうか。
昔、罪人の処刑に象を用い、踏み殺させていた。
所が象の小屋を改修する都合で、仮の小屋に移転となった。
その仮の小屋は寺の隣で、象は聞くともなしに僧侶の読経を聞いていた。
その結果、象に慈悲心が芽生え、次に罪人を処刑する段になって、
罪人を鼻で舐めるだけで一向に踏み殺さなくなった。
役人は困って思案した所、慈悲心があるから処刑業務をしなくなったのだから、残虐な心にするために屠殺場の横へ小屋を設ければよい
ということになり、そうした所、象はめでたく(?)元のように凶暴な性格に戻り、処刑業務に復帰できた、というような話がある。
孟母三遷という話にも通じるが、環境が人へ与える影響は多大な物がある、という内容である。
殺し殺されるという環境に置かれると、そういう心根になってしまうのである。
逆に、仏様の広大無辺の慈悲を感じる寺院へ参詣すれば、仏の心に近づくのである。故に法華経・安楽行品にはそのように説かれてある。
他の生き物の命を奪わなければ私たちは生きていけない。
豚肉が発泡スチロールのパックに詰められて居るのを見て、
私たちはこの為に一つの命が奪われていることを知らなければならない。
現実は知らなければ悟らなければ、ならない。
けれども、ことさら露骨にそれを訴えたりすることは無用ではないかと思う。
幼子を亡くしたキサーゴーターミー女に対し、釈尊は直に「こう」とは示さず、葬儀を出したことのない家から芥子の実を貰ってこい、とだけ説いたことからもそれは言えると思う。
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