人生長くてもせいぜい100年。一度生まれた以上は誰しも必ず死ななければならないのは道理です。
しかし死期が迫った人は一日でも長く生きたいと願い、この世に絶望した人はもはや生きて居たくはないと言います。
聖愚問答抄に、
「人楽生悪死有人楽死悪生の十二字を唱へし毘摩大国の狐は帝釈の師と崇められ」云云(389頁)
という文がありますが、これは昔、インドの毘摩大国という所での話です。
狐が空腹のライオンに追いかけられていました。
必死で逃げる狐は目の前に深い縦穴があったので、そこに逃げ込み、難を逃れました。
ライオンはしばらく様子を伺っていましたが、やがて諦めて去っていきました。
安堵した狐は穴をよじ登ろうとしましたが到底登れない事が分かり、このままここで飢え死にするより他はないことを悟りました。
そして狐は想いました、何故自分はあんなに必死にライオンから逃げていたのだろう。
ライオンも空腹で死にそうだったかも知れない。
家に帰れば腹を空かせた子供たちが待っていたかも知れない。
自分が食らわれれば、悲しいことだけれども、それなりに意味がある死となったはずだ。
死ぬのが怖くて逃げ回ったばかりに、こんな誰も知らない縦穴の底で独りで死んでいくのは誰のためにもならない。全くの無駄死にだ。
こんなことならいっそ、あのとき、ライオンに食われていれば良かった。
私は人知れずここで死んでいくけども、どうか仏様は、私が清らかな気持ちでここで死んでいくことをご覧になっておられます様に。
この狐の小さなつぶやきを天の帝釈天が聞いていました。
この狐、何かを悟ったようだ。聞いてみよう。と、縦穴からのぞき込んで、
狐よ、おまえは何を悟った?と問うと、狐は
教えを請う者は教えを垂れる者より上にいてはいけない、と帝釈天を叱りました。
帝釈天はもっともなことだ、と狐を縦穴からすくい上げて、同じ質問をしました。すると狐は
教えを請う者と教えを垂れる者が同じ高さにいるのはおかしい。
帝釈天は内心むっとしましたが、諸天の神々が狐の言うことは道理だ、というので、帝釈天は
自分の服を脱いで敷物とし、狐に登らせて、恭しく教えを請いました。
すると狐は
「ある人は生きたいと願い、死にたくないと願うが、
ある人は死にたいと願い、生きていたくないと願う」
と自分の悟った内容を帝釈天に説きました。
というお話を紹介したものです。日本は今年間の自殺者が3万人も居ると言うことですが、これはそれだけ世の中に絶望している人が多いと言うことです。
しかし一方で今日を生きたいと願う人も居ます。
しかもこの世界は異なるものではなく一緒の世界なのです。
人の見方でこの世は地獄とも仏国ともなるのです。
安国論に、
「人仏教を壊らば復孝子無く、六親不和にして天神も祐けず、疾疫悪鬼日に来たりて侵害し、災怪首尾し、連禍縦横し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。若し出でて人と為らば兵奴の果報ならん。響きの如く影の如く、人の夜書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し」と。(249頁)
とお経を引用されていますが、前世から仏法に反する因縁を以て生まれてきた人は、様々な不孝を背負い、死後地獄に堕ち、次にたまたま人として生まれてきたとしても、兵隊として駆り出され、苦しみを背負うんだ、と説かれています。
当節、周辺諸国との軋轢が盛んになってきていますが、そうした「兵奴の果報」の因を積んだ人たちがこの世に溢れつつあるのかもしれません。
このようなときに私たちはどうすればよいか、それは成仏の種たる「妙法蓮華経」のこの信心を一人でも多くの人たちに伝えていく、これに尽きます。
誰にでも与えられた100年足らずのこの人生、ムダにすることなく信心に費やして、今生後生のよき思い出として参りましょう。
というような話を朝勤行のあとにしていたら、新宿でその頃にマンションから飛び降り自殺をした歌手がいたとニュースで知って驚きました。
守護国家論に
人身を捨てゝ還って人身を受くるは爪上の土の如く(146頁)
というように、人間に生まれてくることは非常に稀なことなのに、もったいないことです。三世を知らない人は死んで何もかもがリセットされると思って居るのでしょうが、浅はかなことです。
そういう人たちをも、この仏法で救っていかなければならない――そう思いました。
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