用があって、郵便局へ行った。
カウンターに富士山世界遺産登録を記念した記念切手が売られていた。
折角だから買おうかと手を伸ばしてみたが、、、
すぐに元に戻した。
何故ならば、その切手の意匠には悉く神社が描かれていたからだ。
大聖人の仏法=日蓮正宗は謗法厳誡、つまり、間違った教えは決して認めない。
神社は本来、日本国を守護する神が住んでいる所だが、
神はそもそも、正直の人の存在を喜んでその活力の源としている。
しかし、仏法の神髄であり正直のお経である法華経を軽んじ、謗る者が横行しだすと、
神は元気を無くして居られなくなり――、ついには神社を捨てて天上世界へ帰って行ってしまう。
残った神社には悪鬼・魔神が住み着いて人々に害を及ぼしている
と日蓮大聖人は教えて下さっている。
だから、神社に神様は住んでいない。
物見遊山で鳥居をくぐる事もいけないし、
当然そこで売られているお守りや、おみくじなどに頼るのは以ての外、ということになる。
神社を描いた切手を買うのも、謗法の助長に繋がるから、「私は」買いません。
富士山が世界遺産に登録されたのは結構だけれども、
俄に浅間神社等が人気になり、何も知らない大勢の人が参詣するようになるのは、大変宜しくない。
当節、神社以外にも、イスラム教徒の旅行客を当て込んで、観光地にイスラムの礼拝所を設置したり、専用食事メニューを設けて配慮するなど、利に執着して謗法に迎合する姿が見受けられる。
これらの傾向が甚だしくなると、
悪鬼魔神が力を得て、大きな罰が当たるのではないかと心配である。
日蓮大聖人は言われた。
「経文にはいつとはみへ候はねども、天の御気色いかりすくなからず、きうに見へて候。よも今年はすごし候はじと語りたりき。此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず。只偏に釈迦如来の御神我が身に入りかわせ給ひけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる。」(867頁)
仏法の道理の指す所、謗法の繁盛は仏罰・総罰を招くことは必至である。
これを回避するためにも折伏に精進せねばならない。
不幸な総罰に巻き込まれないためにもせめて身内の信心を励まし、有事に備えるべきである。
聞いた話であるが、東日本大震災の以前において、ある御信徒が親戚を折伏していた。素直に入信した人も居れば、嫌がって入信しなかった人も居る。そしてあの大地震が起き、津波が襲ってきた時、入信した人は全部助かったが、信心を拒んだ親戚は犠牲となった。その人は、この歴然たる現証を見て、何故もっと強く信心を勧めて入信させなかったのか、と悔やんだそうだ。
何故あの時・・・と後悔せぬよう、力一杯の折伏を成し遂げていこう。
コメント