待合室にて
北山本門寺の檀家さんに話しかけられた。
聞けば近親者が大病を患ったり、早世したり、色々と御苦労をされているようだ。
息子の嫁が創価学会だとも言っていた。
でも自分は北山の檀家だから創価学会の本尊には決して手を合わさない。
天啓にて先祖の墓参りを100日間行った。
教えがどうであれ、お墓は先祖の眠る所であるから、これほど確かなことはない。
等々・・
こういう部外者に大石寺と創価学会の関係・その正邪を相手が得心行くまで説明するのは中々困難である。
だから端的に、創価学会は間違っているので、そのニセ本尊に手を合わせないのは結構なことだと評した。
しかし――、
そもそもその前に身延日蓮宗は日蓮大聖人の御意に沿っていないから謗法である、罰当たりである、間違っている、という事を言わねばならない。それでそのことを言った。
しかしそういうと面白いことに私は北山の信者であって、身延の信者ではない、という。
本尊も統一されていない烏合の衆は自らの立場もよく承知していないようだ。それで教えて差し上げた。
北山本門寺は元々大石寺の一部だったのが、いつの間にか分離し、身延の家来になってしまった。
だからあなたが認めようと認めまいと、北山本門寺の信者は身延の信者ということになるのですよ、と。
ちょっとびっくりしたようだが、
宗教は奥が深くて難しいですねぇ、と言ってはぐらかされてしまった。
一般の人は、死ねば神仏の如き神通力が具わるかのように考えがちだが、実に死者は遺族の追善供養に救いを求める弱い存在なのであって、現世に生きている私たちが冥福を祈っていかねばならない。私たちが幸福の境涯を勝ち取っていく所に、その縁に惹かれて故人の救済が可能になるのだ――、という真反対の結論を感情的に受け入れられないようだ。
勿論人徳勝れた先祖も居たかも知れない。けれども仏様よりすぐれた人は居ない。仏様を蔑ろにし仏様を凌駕しようという人は罰当たりである。故に仏法による追善供養を喜ばない故人は存在しないのである。
もっと簡単に説明出来る絵本的なアイテムが必要だと思った。
四箇格言に身延日蓮宗は含まれていないが、謗法の果報は共通する物がある。
私の周囲にも、日蓮宗の檀家で若い人が亡くなり嘆く声をしばしば耳にする。謗法の現証は確実に現れている――、そう私はみている。
この地元には日蓮宗の檀家がいまだに多い。聞く耳持つも持たざるも、
正しい相伝による正法の功徳と、師敵対謗法の罪障を説いていこう。
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