(前回からつづく)
その市営住宅は古びた感じで始末の良い人が住んでいそうだった。
この寒いのに、貴重な日光を取り入れようとの考えか玄関口が開いていた。
「こんにちは!御免下さい」
と呼ばわると、中に人の気配がして
「何だ!」と障子の向こうから壮年の方の声がした。
「いきなりお訪ねしまして済みません。私は大石寺の信心をしている者で、この辺を布教に回らせて頂いているのですが少しお話を聞いて頂けないでしょうか?」
と、最早言い慣れた口上を述べると、
「何ぃ~、※※えんな!」
と障子の向こうから返事があった。
「 帰 けぇ んな!」と仰ったのだろうか?
こんな事はよくある。顔も見ずに門前払いのケースだが、返事をしてくれただけでも良い方だ。
娘と顔を見合わせていると
「何やってる!へぇんな!」
と再度声がかかった?
「 入 へぇ んな」・・・つまり「中にお入り」とこのおじさんは言ってくれているんだ。
いやぁ、中々話を聞いてくれる人は居ないので、これは良かった。と内心小躍りした。
おずおずと、娘と障子を開けて居間とおぼしき部屋に入ると、声の主が煙草を吸いながら、テレビの音を下げていた所だった。
それで、来訪の意を告げると、
私の横で畏まっている娘に足を崩せとか、今日は学校はどうした、等かまってくれて、
一応こちらの話を聞いて下さった。
おじさんが言うには、ここいらにも他に布教に来た奴が居る。
顕正会とか妙観講とか、学会とか。
この冨士大石寺顕正会なんてのは警察の家宅捜査を受けているじゃないか、
ケシカラン。ロクなモンじゃない!
というので、顕正会と大石寺は無関係の団体なんだ。勝手に大石寺と名乗られて迷惑している。
という趣旨の話をしたが、中々理解してもらえず歯がゆかった。
色々話をしている中で、実は昔、創価学会に折伏されて御本尊を安置していた、事が分かった。
けれど、学会があんまり活動に出ろ出ろとうるさいので、誘いに来た奴の目の前で御本尊を破いて返し、縁を切った
と言っていた。
その後は色々御苦労をされたようだ。
(そりゃそうだ、御本尊に手を掛けるとは!)
(まず奥さんが難病になり、治療のために東京の病院へ入院となった、特別の治療の為に毎日3万円かかった。妻を助けるために全てを投げ出し、息子三人も学校へ行かせず働かせて治療費を捻出した、しかし甲斐無く妻は死去、息子達には今でも恨まれ、逃げるようにしてここに居着いた。北山の坊さんは妻の葬儀を格安で引き受けてくれて30万円で済んだ。葬式のお経も短くて良かった等と言っていた)
やっぱりたまたまこの家へ来たけれど、縁があってきたのだな、この人は私が救わなければ行けない巡り合わせでは無かろうか、と思えた。
他人のことを悪く言う宗教は間違っている。それが全ての争いの原因だ、と極論するおじさんに、
そんなことはない、間違った宗教がはびこっているから、本当の平和が来ないんだ、という辺りで平行線になり、
日も沈み、私達も夕勤行の時間となったので、今日はこれにて、と帰ってきた。
娘はさして発言はしなかったけれども、信心をしていない人と信心の話をする現場に立ち会って、
妙に興奮していた様子だ。
結局、兄の下校に遭遇することは出来なかったけれども、
有意義なお出かけになったと思う。
このおじさんは今度またきっと、近いうちに、お寺へお誘いしよう!
御書に云く、
此をば天台の御釈に云はく「人の地に倒れて還って地より起つが如し」等云云。地にたうれたる人はかへりて地よりをく。法華経謗法の人は三悪並びに人天の地にはたうれ候へども、かへりて法華経の御手にかゝりて仏になるとことわられて候。(法華証明抄1590)
例え御本尊を返した人であっても、必ず仏縁によって正法を信ずる身と成れるのである。
それはあたかも、大地によって蹴躓いた人が、大地に手を突いて起き上がるようなものである。
(後日談:何度か訪問し話を聞いたり参詣を進めたりしたが、ある時、転んだと言って頭に包帯を巻いていた。大丈夫かなと気になりつつも、他の事で忙しくしていてしばらく訪問が遠のき、次に行った時には空き家になっていた。隣家に聞くと半月前に亡くなり、息子さん達が片付けていった――、とのことだった。救えなかったか、やはり御本尊御不敬の罪は免れないなと慄然とした。せめてもと思って塔婆を立ててあげた)
コメント