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「法主権威主義」なる語を吐く人に出くわした。
一体何を以てそのようなことを言っているのか理解できない。
私がおぼろげに受け取った彼の主張は、要するに、
・彼は昔創価学会員だったが、脱会した。
・阪神大震災などの災害を見て謗法が蔓延しているからだと思った。
・創価学会が大謗法なのは分かっているが、それに救いの手をさしのべない宗門は間違っている。
・猊下は無慈悲であり血脈がない
・自分は猊下と創価学会を諌めるのに勇猛果敢に行動している。
という事のようだった。
何を言っているのかよく分からなかったのしばらくで辛抱強く聞いていたが、
御法主上人を誹謗する言を発するに至っては看過し得ず、即座にお帰り願った。
そもそも、
「大聖人の仏法」という表現を我々はよく使うが、御法主上人を離れての「大聖人の仏法」なんぞあるわけはない。
大聖人は今から七三〇年程前に御入滅なされたが、二祖日興上人に戒壇の大御本尊と共に仏法の一切を譲り渡された。これは大聖人の大慈悲の現れである。
どんなに素晴しい仏様が世に出現されても、それを伝えることなくお隠れになれば、如何にして後世の者達はその仏法の利益を得られようか、否、決して得られはしないのである。
そうであればこそ御付嘱の状に、
背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。(1675)
とあるように、後継者の日興上人に背く者は謗法であると後世の弟子檀那等を誡められたのである。
我々が、「大聖人の仏法」による功徳をこの「現代」において享受できるのはひとえに日興上人以下歴代上人が伝えてきた「大聖人の仏法」を信じ、行じているからに他ならない。
だからいうのである
よく人々は間違って理解しているようだが、「大聖人の仏法」とは取りも直さず「御法主上人の伝える仏法」なのであり、御法主上人を差し引いての「大聖人の仏法」などということは成立しないのである。
故に「大聖人の仏法を行ずる者」とは「御法主上人の指導に従って信行に励む者」をいうのであり、これ以外には存在しないのである。
ところが、平成以降、池田大作という増上慢の輩がどうにかして御法主上人を凌駕せんとして御法主上人に対して酷い中傷を繰り返し、自身を御法主上人を超える覚者の様に喧伝した。
その結果が、冒頭に登場したような人物の量産に繋がったのであろう。
創価学会を退会してもなお、「御法主上人」と「大聖人の仏法」が欠くべからざる関係にあることを素直に信じられないという残滓が存在しているのは誠に創価学会の洗脳の罪深い所である。
御法主上人は「平成三十三年までに八十万人体勢の構築」という指針を打ち出すなど、大聖人の仏法を受け継がれた使命を存分に発揮されている。
また、大震災などの災害が多発するのは仏法の棟梁が曲がっているからだ、というような主張は間違っている。
大聖人の御在世に他国侵逼難・自界叛逆難があったのだ。彼の主張に依れば、そうした災害があったのは大聖人が間違っているからだと言っているに等しい愚論である。
正しい仏法が大きく弘まろうとする時、それを阻もうとする謗法の活動が活発となり、正法の行者(日蓮正宗の僧俗)への迫害が増すことによって諸難が興起するのである。何となれば
説法者を悩乱せば 頭破れて七分に作ること 阿梨樹の枝の如くならん(陀羅尼品 開結580)
との経証が具現化し、この国守護の諸天善神が去るからである。
宗門が歩み寄って創価学会を教導すべきだと言うに至っては開いた口が塞がらない。
破邪無くして顕正はないのである。謗法の創価学会を破門にしてこそ大聖人の正義は保たれるのである。
破邪なくして顕正はなく、正義を立てることなくして安国はないのである。
救われたい者は創価学会を捨てて、個々人で日蓮正宗に帰依すれば良いのであって、創価学会という組織にこだわる心根のあるところ、脱会したとは言っても性根が未だに創価学会である事を物語っている。
大聖人の仏法の基準はどこにあるか、それは「大御本尊への尊信」と「時の御法主上人に対する信伏随従」に極まるのである。
しかしその者は肯んぜず、宗門と言っても結局創価学会と一緒だ。その姿勢は創価学会員がいう「池田先生に間違いはない」、の一点張りと同じじゃないか、などという。
そして勇猛果敢に宗門・創価学会を諌める自分こそが大聖人の仏法を奉ずる正しい者だ、といって論理的な会話を拒否し、周囲の迷惑も顧みず、厳粛な儀式の最中でもお構いなしに粗野にして下劣な言辞を大声で喚き散らすような事が自身の誉れだと思っている。
「師弟相対」という事を頭に入れて九世日有上人の「化儀抄」を読んでみよ、と言い捨ててその場を去ったが、
勿論、彼は聞く耳は持っていまい。
哀しいが「度し難い」としか言いようがない。
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