中高等部の合宿登山にて

先日は中高等部の合宿登山があった。
当坊は引率者の宿坊に指定された。
久々に朗々と元気があって気持ちの良い勤行が出来た。
当坊の勤行に参加した居並ぶ引率者を前に、あぁこの人達が居たればこそこの合宿は成立したのだなぁと
大変有り難い気持ちになった。
世に言われる孟母三遷(1)の故事の通り、未成熟である中高生を正しい信仰に導くのは大人の責務である。
『産湯相承事』に、
聖人重ねて曰ふ様は、日蓮が弟子檀那等悲母の物語と思ふべからず、即ち金言なり。其の故は予が修行は兼ねて母の霊夢にありけり。(1709
とあるように日蓮大聖人はご自身の命がけの法華経身読のその発端は、大聖人の母上が日蓮大聖人を身籠もった時、出産する時に見た不思議な夢にあるのだと仰っている。
それと同じように、引率者(主に母親)の篤い信心による登山、御開扉に臨む姿勢等はそのまま子弟の信心として現れてくる。
しかるところ、今回の引率者の顔ぶれは大変頼もしく思えた。きっと今回の合宿登山は実りの多いものとなったろう。
御法主上人は教育といっても教室型に色々教えるのではない、親の仏様に対する所作の一つ一つを子供が見て真似をして吸収していくのであるから、毎日が真剣勝負でなければならない旨のお話をされたことがある。(H25教師講習会講評)
本当に子供は親の姿をよく見ている。子供にとって信心の良き手本となるよう、常に精進していかねばならない。
ところで
個人主義の世の中で、自分は信心をするけれども子供にはこの信心を強要したくない、などという人がタマにいる。
これは大いに間違っている。というかその親の信心がそもそも間違っている。
子供は未成熟であって何も知らないのである。食事を拒む子供に子供の意見を尊重して与えない親が居るだろうか。
生きるには子供が嫌がろうとも何とか叱ったり褒めたり強要したりして食べさせるだろう。信仰も同じである。
信仰の道理と実践による功徳を子供に得させて、万一その上で子供が退転するならそれは子供の勝手であるが、最初から何も教えず、何も示さず、功徳の実証も語らなかったならば、親の責務の放棄である。
化儀抄では子供が信心をしなかったならば勘当すべきであると書かれてある。
子供にそう言う「信心はしたければすればいいよ」という及び腰な事を平気でいえる親は功徳の実証もない形ばかりの信心しかしていないのではないか。
常に発心し、唱題折伏を心がけていれば、歓喜が途切れることがない。
そうすればなぜお前は信心をしないのだ、絶対後悔しないからやりなさい、と自信を持って自然となっていく筈である。
親が本気の信心をしていないから、子供も信心をしないのだ。そういう観点からも、改めて真剣の信心に励んでいこう。

(1)孟子の母が、わが子の教育に環境の悪い影響が及ぶのを避けるため、墓地のそばから市場のそばへ、さらに学校のそばへと三度住居を移した故事から。

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