奉書写之

【創価学会の本尊義改竄発表について】
 
世に「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という皮肉な格言がありますが、
創価学会は「猊下憎けりゃ御本尊まで憎い」という言動に出たというべきであります。
一体、創価学会は大御本尊を否定して何を信じているというのでしょう?
 
日達上人が
「日蓮正宗の教義が一閻浮提に敷衍していってこそ広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります。」
と言われた通り、本門戒壇の大御本尊を否定した創価学会には、もはや「広宣流布を語る資格」は皆無となったのです。
 
御本尊の御文字をよく見てみましょう。左下の方に猊下の名前と共に
「奉書写之」
とあります。
例えば「六十六世日達 奉書写之」とあれば、
御本仏・日蓮大聖人からの唯授一人の血脈を継承する日達上人が「この御本尊を書写し奉った」
という意味です。
何を「書写」したかといえば言うまでもない「本門戒壇の大御本尊」を書写されたのです。
 
各家庭や寺院の御本尊が尊いのは、
・唯授一人の血脈を継承する御法主上人が、大聖人の御内証(心の内の悟り)をもって、
・本門戒壇の大御本尊を書写され、
・御法主上人の許しを得て下附、
されたからであり、ここに初めて各家庭・寺院の御本尊に大御本尊の功徳が具わるのです。
 
御法主上人以外の誰かが勝手に書いた曼荼羅のような物、御法主上人のあずかり知らないところで複製された曼荼羅のような物、は本尊たり得ないことは明白です。
またそもそも戒壇の大御本尊を書写した物でなければ本尊とは言えません。
 
今般創価学会は本門戒壇の大御本尊を明確に否定しました。
ニセ本尊にせよ、日蓮正宗下附の御本尊にせよ、自分たちが日々拝んでいる曼荼羅のような物には「奉書写之」とあって、大御本尊の写しだ、と書いてあるにも関わらず、原田稔はその大元の本門戒壇の大御本尊は本尊ではない、と否定しているのです。
もはや「悩乱の極み」と言うほかありません。
 
末端会員の中には、
「創価学会の上層部がどう言おうとも、自分は大御本尊を信じて居るから今まで通り日達上人の御本尊を拝んでいく」
という自分さえよければよいと考える人がいるかも知れない。
しかしこれは道理が通らない。自分が既に創価学会という組織に所属している以上、その組織の主義主張を認めていることになる。創価学会が本門戒壇の大御本尊を否定した以上は「上層部がどう言おうとも」などという理屈は通らない。
その人も創価学会と同様、本門戒壇の大御本尊を否定している事になってしまうのです。
如何に日達上人の御本尊であったとしても、自分が立場的に本門戒壇の大御本尊を否定している側にいるのですから、「奉書写之」の「之」の字は何を指しているのか分からないことになります。
もし「之」の字が本門戒壇の大御本尊とするならば、
創価学会はそれを本尊にあらず、と否定しているのですから、
御本尊ではない物の写し、を拝んでいる事になってしまうではありませんか。
即ちそこには本門戒壇の大御本尊の功徳は具わらない、のです。
 
池田大作は以前、信仰を送信機と受信機に喩えたことがありましたが
今、創価学会は受信機側にありながら自ら周波数を変更して送信機たる本門戒壇の大御本尊の功徳を拒否したのです。
今後は如何に百千万億遍唱題しようとも創価学会にいる限りは功徳はありません。
 
この大謗法の咎を逃れるためには、創価学会を退会して、日蓮正宗の勧誡を受けなければなりません。
 
まだ道理の通じる不失心者(心を失わざる者)は是非、当坊においで下さい。
本門戒壇の大御本尊のすぐ近くの本種坊で信心の再出発をしましょう
 
TEL:0544-58-19O1
 
 
 

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