戒壇の御本尊様によって我が宗旨が建立されておるのであります

創価学会員と話をしていたら、けしからんことに昭和52年創価学会教義逸脱謗法化路線問題を否定する発言があったので、以下の証拠を掲げておきます。
妙信講(現・顕正会)も正信会も創価学会が原因となって発生したという自覚が全くない。
大きな図体の信徒組織が脱輪しそうになるのを日達上人は大変心を痛められ、慰撫教導なされていたのです。
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日達上人御言葉 (日達上人全集2-6-294)
  富士学林研究科開講式
                 (昭和四十九年六月十八日 於総本山大講堂)
 今回から学林長が、新しくなったから、学林の行き方も新しくなっていくと思いますが、まだいろいろ昨年度までの続きが、学林の教科書として残っておるのが多いから、まだ急にいろいろと変わるわけではないと思います。
 しかし、学林長が変われば、またその学林長の教則のもとで、いろいろと審議が加えられていくと思うのであります。この辺でも、最近ある書が御書だということを盛んに言われてきております。私の耳にもしばしば入ってきています。まただれそれが仏であるという言葉も、この近所で聞かれるのであって、私は非常に憂慮しています。
 なるほど、もしだれそれが仏であるというならば、それは我々はみな全部仏であります。
 それは理の上からそういうことになります。しかし、我々の宗教として信心するところの仏ではない。たしかに凡夫が体の仏であるということは、御書にはっきり書いてあります。その体の仏をもって、どこまでも仏だと
↓(2-6-295P)
言いふらしていくならば、たいへん間違ったことになります。やはり末法の仏は、宗祖大聖人以外にはないのであります。そして大聖人のご遺文を本宗では御書と称しておる。それは、日興上人から明らかに御書とお説きになっております。
 この上に大聖人のご建立遊ばされた戒壇の御本尊を中心として、三大秘法の中心たる御本尊として、我々はこの一大秘法の御本尊を拝み、宗旨の三秘として三大秘法を説くのであります。
 そこに、わが宗の宗旨というものがある。
 わが宗というものの存在といいますか、その体といいますか、戒壇の御本尊様によって我が宗旨が建立されておるのであります。それが、たまたま違ったことが入るならば、もうそれは日蓮正宗ではない。もし日蓮正宗の御本尊を拝するならば、日蓮正宗の教義に従って、信心していかなければならないのであります。その信心を進めていくのが僧侶としての役目である。諸君の教師としての役目であります。
 もしそれに反することを聞いたならば、どこまでもこれを破折して、日蓮正宗の信徒を養成していかなければならない。
 それが僧侶としての、教師としての義務であります。どうか、地方においてそういう間違った言葉を聞いたならば、大いにこれを破折して、日蓮正宗の教義を宣べて頂きたいと思います。
 日蓮正宗の教義が、一閻浮提に敷衍していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります。
↓(2-6-296P)
 みなさまの今の時にもし日蓮正宗の教義でもなく、大聖人の教義でないものが、世界に広がったからといって、決して我々は喜ぶべきでもないし、大聖人がお喜びになるとは思いません。むしろ、日蓮正宗の精神がなくなってしまった、消滅してしまったということになるのであります。それは非常に悲しいことであり、我々の責任は重大であります。
 今日ここに、我々の責任が大きいことを考えなければならない。
 どうぞみなさま、この一年間に何回となく、忙がしいところを、本山へ来て信心を深める。それは、日蓮正宗の教義をより以上に鮮明にしていかれるのである。もちろん学林がその根本であります。但しそれよりも先に信心である。信・行・学、それを我々の身にしっかりつけて、そして地方の寺院において布教して頂きたい。
 そういうふうに説いても、あるいは今の多くの信者からは相手にされないかもしれません。相手にされなくてもよろしいが、とにかく自分は、その信念をなくしたり、隠したりすることは、日蓮正宗の教師とは言えないのであります。
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文中、一言も「創価学会」とは言われていませんが、まさしくこれは創価学会の池田大作の言動を指しています。
私はこの日達上人の御慈悲溢れる御言葉を拝して涙をが止まりませんでした。

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