今日は父の日だということにさっき気がついた。
子供から、今日は何かおいしいものでも食べましょう、と言われたのだが、
最近大きな散財があってとてもお金を使う気にはなれないから、父を思うなのならせめて今日は一銭も使わないで過ごしてくれ
と言い置いた。
父の日にかこつけてケーキなどにありつけると思っていたであろう子供はつまらなそうに引き下がった。
子供から、今日は何かおいしいものでも食べましょう、と言われたのだが、
最近大きな散財があってとてもお金を使う気にはなれないから、父を思うなのならせめて今日は一銭も使わないで過ごしてくれ
と言い置いた。
父の日にかこつけてケーキなどにありつけると思っていたであろう子供はつまらなそうに引き下がった。
この父の日の由来は知らないが、父母を敬い、もてなし、幸あれと念ずる事は仏法に叶った良いことには違いない。
今では偽書とされているが十王讃歎抄という文献には孝養に三種有りとして、親に物を施すを下品とし、親の意に違わないのを中品とし、功徳を回向するを上品とする
としている。
例えば
秘かにに禁煙しようと思っている親に、喜ぶだろうと思って、煙草を何カートンも謹呈するなどは下品の孝行であり、実に孝行ではない。
親が望むからといって日蓮正宗信徒の折伏に耳を傾けず唯々諾々と先祖伝来の邪宗にこだわるのは、決して孝養などではない。
寧ろ、中品の孝養が上品の孝養と相反することになる。
孝養とは、自分の思い込みでよかれと思って為すことではない。やはり正義・真実・実利のある即身成仏の境界を得せしめること、これが究極の孝養である。
それは即ち、日蓮正宗の信心をさせること、高めること、に他ならない。
高い山には自分で登らねば、登ったという甲斐はない。
それと同様に、成仏の境界も自分が修行しなければ決して得られない。
だから、父の日には共に唱題し、寺院へ参詣し、折伏に歩くこと、これらが最高の孝養となるだろう。
亡父には塔婆を建てて日蓮正宗の菩提寺でお経をあげてもらう、例え雨でも墓参してお経を上げればどんなにか故人は喜ぶことだろう。
今では偽書とされているが十王讃歎抄という文献には孝養に三種有りとして、親に物を施すを下品とし、親の意に違わないのを中品とし、功徳を回向するを上品とする
としている。
例えば
秘かにに禁煙しようと思っている親に、喜ぶだろうと思って、煙草を何カートンも謹呈するなどは下品の孝行であり、実に孝行ではない。
親が望むからといって日蓮正宗信徒の折伏に耳を傾けず唯々諾々と先祖伝来の邪宗にこだわるのは、決して孝養などではない。
寧ろ、中品の孝養が上品の孝養と相反することになる。
孝養とは、自分の思い込みでよかれと思って為すことではない。やはり正義・真実・実利のある即身成仏の境界を得せしめること、これが究極の孝養である。
それは即ち、日蓮正宗の信心をさせること、高めること、に他ならない。
高い山には自分で登らねば、登ったという甲斐はない。
それと同様に、成仏の境界も自分が修行しなければ決して得られない。
だから、父の日には共に唱題し、寺院へ参詣し、折伏に歩くこと、これらが最高の孝養となるだろう。
亡父には塔婆を建てて日蓮正宗の菩提寺でお経をあげてもらう、例え雨でも墓参してお経を上げればどんなにか故人は喜ぶことだろう。
個人主義が徹底していくと、もはや家族という枠すら崩壊していってしまうのではないかと思う。
この信心の流布こそが、今の世の中を根底から変えていく一見迂遠に見え乍らも唯一着実な方法である。
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