ああ、これはよいかも知れない。今までテキストで起こしていたが、現物の画像の方がよほど見栄えがするではないか。やはり文章は縦書きでないと読む気がしない。
と言ってもテキストにしないと検索できないので一応貼っておく
—————————————
○逃げ惑う永遠の指導者
本尊は、根本尊崇の対境である。故に、教団の時々の都合によって本尊観が変わるなど本来、あり得ない。
昨年十一月、創価学会は、会則の教義条項を改悪し、
「弘安二年の御本尊は受持の対象にはいたしません」(聖教新聞平成二十六年十一月八日付)
と、日蓮大聖人の仏法を根本から破壊する邪説を立てた。
学会は、これまで八十年以上にわたり、大御本尊を大聖人出世の本懐と信じてきた。破門以前は、その正義に則って、邪宗身延派などを破折し、また毎年、百万人を超える会員が大御本尊を渇仰恋慕し、世界各地から総本山に登山参詣していた。
今回、創価学会が打ち出した邪説は、これまでの学会員の信仰を根幹から否定する、大誑惑である。
本尊義改変という、宗教にとっての最重要事を、一言も説明しない指導者など聞いたことがない。池田大作が永遠の指導者というなら、逃げ隠れせずに、堂々と自らの口で説明責任を果たしてみよ。
○日寛上人への冒涜
今回の会則変更による会内の動揺を収めるためか、学会教学部が聖教新聞紙上(本年一月二十九・三十日付)に解説(以下「怪説」)なるものを発表した。そこでは、
「日寛上人の教学には、日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のある部分と(中略)疲弊した宗派を護るという要請に応えて、唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分があるので、今後はこの両者を立て分けていく必要がある」
と、傲慢不遜の暴論を立てた。その上で、「日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、すべて根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく『本門の本尊』である。また、『本門の本尊』に唱える南無妙法蓮華経が『本門の題目』であり、その唱える場がそのまま『本門の戒壇』となる。これは、末法の一切衆生の救済という日蓮大聖人の仏法の本義に基づいた解釈である」
などと言い、日寛上人所立の三大秘法開合の義は、
「御書そのものには説かれていない」
ので、今後は用いないと宣言している。
ならば問う。
怪説が言う「本門の本尊」への唱題が「本門の題目」であり、その場が「本門の戒壇」となるという義も「御書そのもの」に説かれていないではないか。
自分勝手に日寛上人の教学を利用するご都合主義は到底許されない。日寛上人は三秘開合の義を立てた理由について『法華取要抄文段』に、
「『御書そのもの』に『一大秘法』『三大秘法』『本門の教主釈尊を本尊とすべし』などと表現が異なる諸文があり、これらを正しく会通するために、仏法の一切が一大秘法の大御本尊に結帰する意義を確立した(趣意)」(御書文段五三九頁)
と御教示である。
これは血脈相伝の深義に基づくものであり、いかに学会が「御書根本」と叫んでみても、極理の師伝を拝信しなければ、邪宗身延派などと同じく、大聖人の本義に迷うのみである。
<h3>○完全に邪宗と化した学会</h3>
怪説の中でも特に看過できないのは、「御本尊はすべて『本門の本尊』」とする大謗法である。これでは、身延日蓮宗寺院が所蔵する御真筆本尊、邪宗の貫首が模写した漫奈羅、さらには正信会や顕正会などの異流義に蔵する本尊にも、等しく「本門の本尊」としての価値と功徳が具わることになるではないか。
学会が、どんなに邪計を巡らそうと、学会が認定する本尊のみが正しい理由を「御書そのもの」で立証することなど、不可能である。組織に誑惑された個々の学会員に対し、「すべて『本門の本尊』なら、身延の本尊でも拝んでいいのか!!」「本当に大御本尊への信仰を捨てられるのか!?」「あなたの信心とはその程度のものだったのか!」「大御本尊の功徳を忘れるな!」と説いて、多くの人々を大御本尊のもとに導こうではないか。
—————————————
と言うわけで、創価学会はあきれる程、無茶苦茶な主張をしています。
有象無象の中から、日蓮大聖人樣が五重相対、四重興廃、三重秘伝等浅い所から深い所へ収斂していって、最終的に「出世の本懐」として定められた御本尊を、抽象化、平均化して再び有象無象の取るに足らないものに帰していっている、即ちそれは大聖人の仏法の破壊をしている事だと気がついていない。(いや、気づかぬふりをしているだけ、か。)
コメント