以下は御書の御文を単純に置換をしたものだ。全く違和感がない。それも当然だ。
意としては法華経=大聖人の御法魂=本門戒壇の大御本尊であるからだ。
仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし(経王殿御返事685)
爰に知んぬ、我等が心は戒壇の大御本尊なり、戒壇の大御本尊は我等が心なりと。戒壇の大御本尊をしらざるは即ち我が身をしらざるなり。所謂、身を知らざる者あり、移宅に妻を忘れたる是なりと。されば仏にならざる者あり、後世の為に戒壇の大御本尊を忘れたる者是なり。故に戒壇の大御本尊を信ぜず謗る者は、諸仏に背き、諸天に背き、父母に背き、主師に背き、山に背き、海に背き、日月に背き、一切の物に背くなり。
今の創価学会は依るべき大御本尊に背を向けてしまった。ゆえに一切の物に拒まれ諸事うまく行かなくなるという謗法の現証が現れてくるのである。
彼等だけにあるのでない。依正不二、総罰の姿として、一国に及ぶ災難は分分に正法を信じて居る我々にも及ぶのであるから他人事ではないのである。
折伏は必然なのである。
(ほかにも、教主釈尊=日蓮大聖人 と置換可能な場合がある)
当山古来の御相伝に云わく「本門の教主釈尊とは蓮祖聖人の御事なり」
(末法相応抄P143)
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