昔の書類を整理していたら、たまたま以下のコピーがあった。
記録の為に掲げておこう、と思う。
---慧妙H14.10.01号3面より---------------------
総まとめ!創価学会の邪説を破す
(第18回)
大石寺売却事件の真相
土地名義が勝手に変更されただけ
創価学会の邪説
宗門は「日蓮正宗は謗法厳誡の宗旨を守り、今日まで清浄に大聖人の仏法を伝えてきた」などと言っているが、じつは、第九世日有上人の時代に大石寺が謗法になっていたという記録がある。
それは、『有師物語聴聞抄佳跡』の中に
「この富士大石寺は上行菩薩が伝えた題目弘通の寺の元である。柳袋の彦次郎が地頭から臨時の税金を課せられたため、この大石ヶ原というのは上代に地頭の奥津方から永代に限り十八貫で買い取った所を、公事(税)までかけられた。末代まで大切な事柄であり、この処置をさせるために、三人の留守居を決めていたが、どのような考えがあったものか、留守居がこの寺を捨て去ってしまったために、六年の間、謗法の処となっていた。老僧(日有上人)が立ち帰って高祖聖人の御命を継いだのである。そのようなことがあって、一度は謗法の処となったので、また地頭の奥津方より二十貫でこの大石ヶ原を買い取って、高祖聖人の御命を継いだのである」(該当個所の通解)とあるとおりである。
このことは、第五十九世日亨上人も、『大白蓮華』の取材に答えて、次のように述べている。
「日有上人は、大石寺の跡のことを次のように話されたという。
つまり、三人の代官をおいた。しかるに、三人の代官がグルになって、大石寺を売っちまったということが書いてある。
それで日有上人が帰って、三人を追い払って、そして、ほかの代官をおいたなんていうことが書いてある。
その三人、四人という人がですね、相当の身分の人ですって、みな阿闍梨号をもっていますからね。あの時分の阿闍梨号をもっているのは、相当の者でなくちゃ阿闍梨号はつけないです。」(『大白蓮華』昭和三十一年十一月号)
大石寺が六年の間、謗法の寺になっていたことも驚きだが、当時の高僧達が大石寺を売り払っていたことも大問題だ。
破折
大石寺の古記録を取り出して日蓮正宗を誹謗する材料にするのは創価学会の常套手段だが、古記録は、現在とは異なった状況の中で書かれたものであり、また、不確かな点を多く含む場合が多いので、その扱いには注意を要する。
まず、学会のいう「大石寺売却」ということであるが、これは、正しくは大石寺売却ではなく、大石寺の所在する大石ヶ原が、当時の地頭によって勝手に名義変更されてしまった、というだけで、べつに大石寺が売られたわけでも、また、そのために謗法の僧侶が君臨する寺になったということでもない。
創価学会が金科玉条のように持ち出している『大白蓮華』の日亨上人のお言葉でも、それについて述べられている。
『大白蓮華』記事から、該当個所を引用する。
「○(編集者) 大石寺を売ったということ……
(中略)
堀(日亨)上人 売ったから、自分で帰って、三十何貫文を出して、そして、また元に返してしまった。何でも二十貫文かそこらで売った、と書いてある。
それはですね、あの時分は何でもないです。中央政府があやふやですね。ですから、あの辺のすべての政治上の関係は鎌倉管領でしよう。それは鎌倉管領なるものはあってもですね、地方の豪族に左右され、(中略)下等の代官である興津なんていう家でもって富士郡あたりのことをしていた。」
要するに、「売られた」といっても、それは「何でもない」ことで、地方の豪族が勝手に行なったものだということである。
その実態は単なる大石ヶ原の名義の変更であり、大石寺が謗法者に支配されたわけでもなければ、宗旨が変わったわけでもない。
それを、日有上人が謗法者の手から買い戻されて、 「また元に返して」しまわれたのである。
どこが「謗法の寺になっていた」というのか。何の問題もないではないか。
また、「当時の高僧によって大石寺が売られた」という点についてだが、文献的に詳しいことは判っていない。
しかしながら、不法な手続きによって変更がなされた土地名義も、時の御法主・日有上人によって元に戻されているのであり、このことによっても、御歴代上人によって仏法が今日まで護持されてきたことが、明らかに拝されるではないか。
こうした創価学会の疑義は、ためにする言い掛かりとしか、いえぬのである。
慧妙H14.10.01号3面より
-----------------------------------
そのうちに『大白蓮華』昭和三十一年十一月号を探して当該箇所の画像をupすることにしよう。
コメント