擬宜、誘引、弾呵、淘汰・・・というのが思い出せなくて、結局、本を開いてしまった。
しかしこういうのは為になるから、画像として掲載しておこう、ということでこちらに掲げておく。
基本的なことだけれども、日常、反復して使わないとややもすると忘却してしまうことがあるからね。
今、守護国家論を拝しているのだが、
「大部の経大概是くの如し。(此より已外諸の大小乗経は次第不定なり。或は阿含経より已後に華厳経を説き法華経より已後に方等般若を説く。)皆義類を以て之を収めて一処に置くべし」(新編122)
ということが今回大いに勉強になった。
これは要するに、
例えば高校の授業をイメージしてみて下さい、一年生で学ぶことを学び終えた大多数の生徒は二年の勉強に進むわけですが、中には一年生の内容のある部分を理解出来ずに、二年になってから、補習で不足分を補う事もあるでしょう。でもこれは例外であって、本来学校側が設定しているの二年生のカリキュラムではない、ということになるでしょう。
仏様の御化導も一緒で、大多数の人は機根を調えて次のステージに進んでいくのですが、中には乗り遅れた人も当然居るわけで、それらの人に一時的にステージから離れた教えを説く場合もあります。空の教えを説く般若時のステージに、一部の人に方等時の教えを説いたこともあったでしょう。後になって華厳時の内容を説いたこともあったでしょう、しかし、釈尊の化導の大筋を掴む為にはそういう例外を度外視して、正統な釈尊の御本意の化導の次第を見ましょう、ということなんです。
と説明してみた。
釈尊一代の説教の次第を明らかにする作業は、あたかも純白のジグソーパズルを完成させるような物で、この切り欠きがこの出っ張りと合致するか、する/しない、という膨大な作業を繰り返して、出来た物であろうと思う。
その中ではやはり年限を銘記した無量義経の「四十余年未顕真実」が確実なパーツであったことは間違いない。
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