人頭鹿

池とアヒル、カモかな? 未分類
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ロシアのサーカス団で飼われていた虎に生き餌として山羊が与えられた。
しかし毅然とした山羊を虎は餌として食さず、共生し始めた――、というニュースがあった。

これには色々と考えさせられる要素があると思う。

以下は大智度論にある「人頭鹿」の原典だが…
T25n1509_p0178c14?F9F8(大正蔵25巻178頁C段文献番号1509)

我實是畜獸  名曰人頭鹿 私は頭が人だけど、中身は鹿だった。
汝雖是鹿身  名爲鹿頭人 お前は頭が鹿だけど中身は人だった。
以理而言之  非以形爲人 それは形が人だから人なんじゃない
若能有慈惠  雖獸實是人 慈しみの心があるなら畜生も人だ
我從今日始  不食一切肉 私は今日以後肉食はするまい
我以無畏施  且可安汝意 私は施しを以てしばらくお前の意を安んずるだろう。

――と、なんだかラップのような意訳になってしまったが、

これは狩猟を楽しむ人間の王(人王)の前に、「遊び半分で大勢の鹿を殺すな、肉が欲しいなら毎日1頭ずつ出頭させるからどうか無益な殺生は止めよ」、と訴えた鹿の王がいた。
人王は一興と思い、これを諾した。
以後毎日一頭ずつ選ばれた鹿が人王の所へ出頭してきたが、ある時この出頭の順番で鹿の群れで諍いがおきた。
懐妊中の雌鹿が出頭の順番に当たり、彼女はもうすぐ出産だから、順番を後回しにしてくれ、と言い出したのだ。
じゃぁ次の鹿が行けといっても、冗談じゃない、死にに行くのを一日早めてくれませんかと言われて誰が承伏するものか!と承知しない。
進退窮まった鹿王は、じゃぁ言い出しっぺの私が彼女の代わりに明日出頭しよう。と請け負った。
過日交渉に来た鹿王が人王の前にやってきて人王は訝しんだ。そして、何だ鹿はついに一匹もいなくなったのか、王であるお前自らが出頭してくるなんて。と皮肉を言った。
すると鹿王は事の顛末を話した。
これを聞いて人王は大変感心し、述べた言葉が上記のものである。
この説話は

命の器に尊卑はない。命そのもののにこそ尊卑がある。

と説いているかのようだ。

一方、涅槃経に「菩薩摩訶薩悪象等に於ては心に怖畏すること無かれ。悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ。何を以ての故に。是の悪象等は唯能く身を壊りて心を壊ること能はず、悪知識は二倶に壊るが故に。是の悪象等は唯一身を壊り、悪知識は無量の善身無量の善心を壊る。是の悪象等は唯能く不浄の臭き身を破壊し、悪知識は能く浄身及以浄心を壊る。是の悪象等は能く肉身を壊り、悪知識は法身を壊る。」とあるそうだ。

これは怒り狂った凶暴な象に殺されたとしても心が汚されなければ何と言うことはない。

と書かれてあるのは、命の大切さは我々の正しい信念にこそある、と言えるのではなかろうか。

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