最近入信した人へ、勤行等を教えている。その中で良く発するのが
「修行とは」
という言葉である。
これまで仏教に無縁だった人々にとって「修行」という言葉はもの凄く大変なもののように受け取られがちである。事実「修行」と聞いただけで「拒絶」の意を示す人も居た。
しかし、修行というのは、これは私が小僧の頃、係の先輩僧侶から言われた言葉だが、修行というのは何も特別なことではない。
「決まったことを決まった時間に毎日ずっと続けること」なのだと。
だから、朝晩の勤行はいつも同じ時間にせねばならない。一日も欠かさずにすること、これが「修行」である。
そうすることで、自ずと心身が御本尊のお力によって調い、自分が変わり、周囲からもその変化を認められ、歓迎される人徳を有するようになるのである。
釈尊が最初に説いたのは阿含経であるが、ここでは戒律を説いている。
「戒」とは「縷々行う」の意味であって、その教えに制戒された事柄を常に守って実践することで、その教えが身につき、性格の一部となり、その教えの理想とする円満な人格を形成するのである。
勿論、日蓮正宗の教えは成仏の法であるから、日蓮正宗の勤行を毎日欠かさず行う事によって、知らず知らずのうちに成仏・即ち仏となる事が出来る、仏様の振るまいを身に持つ事が出来るのである。
だから、毎日の勤行を軽々しく考えてはイケナイ。

半鐘を叩くタイミングを見計らう僧侶
(法要開始の半鐘の叩き始めを秒単位で確認する僧侶)
19年程前に北海道で大きなトンネル落盤事故があった。その際、友達に誘われて、朝勤行せずに学校へ行こうとした小学生が、祖母に勤行をサボるなと指摘され、バスを一本遅らせて朝勤行をしてから登校した所、この難を逃れ得た、という話を最近聞いた。
有り難い話だが余りに周りが悲惨な被害にあっていたので当時は言うに言えなかった秘話である、とのこと。
その小学生は祖母に注意されて素直に朝勤行をしていっている。ということは日常的に朝勤行をちゃんとやっていた証拠である。そうでなければ「うるさいなー、放っておいてよ」と祖母の忠告も聞かなかったろう。
これなどは大聖人の仏法が自らの人格形成に寄与するのみならず・精神修養に止まるのではなく、不思議の御利益を信心修行する者に下さるのだ、ということがわかる。だから、勤行をちゃんとしよう。
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