知らず知らずのうちに謗法のレールに乗っかっている

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『十法界明因果抄』にあったお話です。
阿難尊者は浄飯王の甥、斛飯王の太子、堤婆達多の舎弟、釈迦如来の従子なり。如来に仕へ奉りて二十年、覚意三昧を得て一代聖教を覚れり。仏入滅の後、阿闍世王、阿難に帰依し奉る。仏滅の後四十年の比、阿難尊者一の竹林の中に至るに一の比丘有り。一の法句の偈を誦して云はく、若し人生じて百歳なりとも水の潦涸を見ずんば生じて一日にして之を睹見することを得るに如かず」已上。
阿難此の偈を聞き比丘に語りて云はく、此仏説に非ず、汝修行すべからず。爾の時に比丘阿難に問うて云はく、仏説は如何。阿難答へて云はく、若し人生じて百歳なりとも生滅の法を解せずんば、生じて一日にして之を解了することを得んには如かず已上。
此の文仏説なり。汝が唱ふる所の偈は此の文を謬りたるなり。爾の時に比丘、此の偈を得て本師の比丘に語る。本師の云はく、我汝に教ふる所の偈は真の仏説なり。阿難が唱ふる所の偈は仏説に非ず。阿難年老衰して言錯謬多し、信ずべからずと。此の比丘亦阿難の偈を捨てゝ本の謬りたる偈を唱ふ。阿難又竹林に入りて之を聞くに、我が教ふる所の偈に非ず。
重ねて之を語るに比丘信用せざりき等云云。仏の滅後四十年にさえ既に謬り出来せり。何に況んや仏の滅後既に二千余年を過ぎたり。仏法天竺より唐土に至り、唐土より日本に至る。論師・三蔵・人師等伝来せり、定めて謬り無き法は万が一なるか。何に況んや当世の学者偏執を先と為して我慢を挿み、火を水と諍ひ之を糾さず。偶仏の教への如く教へを宣ぶる学者をも之を信用せず。故に謗法ならざる者は万が一なるか。
(十法界明因果抄207

この度、数多の創価学会員がこの例に加わりましたね。
又次下に
「貪等無き諸の善人も謗法に依り亦謗法の人に親近し自然に其の義を信ずるに依って餓鬼道に堕することは、智者に非ざれば之を知らず。能く能く恐るべきか。」
ともあります。知らず知らずのうちに謗法のレールに乗っかっている事に気がつかず、三悪道に堕しているのは哀れです。

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