文永元年(1264)11月11日、日蓮大聖人は故郷の安房で東条景信の軍勢の要撃を受け、工藤吉隆・鏡忍房の殉教者を出した。大聖人御自身も眉間に刀疵を負い左手を骨折するという重傷を負った。
今から755年前のことになるのかな。
末法の世に命がけで法華経を弘める行者は刀やで切りつけられ、棒で叩かれ、石を投げられる。また一度ならず追放される、という法華経の予証の通り、大聖人はこれらの法難を受けた。
大聖人は、
「 法華経を余人のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ」( 土篭御書 483頁)
と身で法華経を体得する事が大事であることを述べられ、御自身は、
「 日蓮法華経のゆへに度々ながされずば、数々の二字いかんがせん。此の二字は、天台・伝教もいまだよみ給はず。況んや余人をや。 」(開目抄541頁)
と御自身こそが法華経に予証される滅後弘教者であるとの御自覚を披瀝された。
そして大聖人は、
「 日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし 」(経王殿御返事685)
と御自身の魂を妙法漫荼羅に籠められ、また、
「 仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり」(聖人御難事1396)
と出世の本懐の大事たる御本尊を弘安2年に顕された。これこそ大石寺に700余年厳護されてきている本門戒壇の大御本尊である。
さて、以上の事より、大聖人即法華経であり、大聖人即大御本尊である、そして日蓮正宗の伝統法義として末法の法華経は漫荼羅御本尊(大御本尊)であると伝えられているのであるから、現代に生きる我々は、大御本尊を信じ、大御本尊をお守りしている御当代上人の指導を拝して、信心をする、これこそが法華経を修行する姿なのである。
その中においては周囲に信心の理解が得られず四面楚歌の状況もあるだろう。
大変事もあるだろう。しかしそれを跳ね返してこそ、大聖人に連なる信心というものである。
現代、命の及ぶ法難は余りないかもしれない。しかしあったとしても信じ切る、信じ貫くことが大事である。
小松原法難の日、このことを肝に銘じようではないか
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