病と仏法

新型コロナウィルス 未分類

『病と仏法』
96/12/13 PM7:00~ 於:壽命寺

(奉読)
【妙心尼御前御返事 (建治元年八月一六日 五四歳)】
人の死ぬる事は やまひ にはよらず。当時の ゆき・つしま の ものどもは病なけれども、みなみな むこ人 に一時に うちころされぬ。 病あれば 死ぬべし という事 不定なり。 又このやまひは 仏の御はからひか。そのゆへは 浄名経・涅槃経には 病ある人、仏になるべきよし とかれて候。 病によりて 道心はおこり候か。 又一切の病の中には 五逆罪と 一闡提と 謗法をこそ、 おもき病とは 仏は いたませ給へ。 今の日本国の人は 一人もなく 極大重病あり、所謂 大謗法の重病 なり。今の禅宗・念仏宗・律宗・真言師なり。これらは あまりに 病 おもきゆへに、我が身にも おぼへず 人も しらぬ病なり。この病の こうずる ゆへに、四海の つわもの たヾいま 来たりなば、 王臣万民 みなしづみなん。これを いきて み 候はん まなこ こそ あだあだしく候へ。
(新編御書 九〇〇頁)

 本日は,病と仏法と題しまして少々お話をさせていただきます。
当節は,エイズだとかO157だとかB型肝炎だとかこの科学万能の世にあっても難病奇病が後を絶たないのは如何なる事でありましょうか?いくら医学が進歩してもまるでイタチごっごの様に様々な現代病と称される病気が涌いて出てまいります。
信心をしている私たちはその根源が一体どこからくるのか,ということをよく知っておかなければならないと思います。

 そもそもお釈迦様が出家を志されたキッカケは四門出遊,すなわち生/老/病/死の4つの苦,四苦という人生の根本的な苦悩を解決するためであります。
人が生きていく上において,生まれたこと/生きることの苦しみ,老いさらばえてゆく苦しみ,また病気で意のままにならない体を引きずる苦しみ,更には死への恐怖,とは決して無縁に過ごすわけには行きません。
 これについてお釈迦様は先ず初転法輪として八正道というものを説いて,苦行やら快楽主義の両極端ではなく,(八つの正しい実践徳目を行じて)中庸・中道を重んずる事において解消できると説きました。勿論,これは当時,難行苦行をする事こそが解脱への道であると信じられていた常識を覆すために方便として説かれたものでお釈迦様の随自意,本当に言いたかった教えではありません。お釈迦様の随自意の教えはやはり法華経につきるわけでありまして,それは薬王菩薩本事品第二十三に,
此経則為。閻浮提人。病之良薬。若人有病。得聞是経。病則消滅。(開結538)
(この法華経は世の中のすべての人にとって、病の良薬である。もし病人がこの法華経を信じたならば、その病は癒えるのである)

と明確に示されている通りであります。また私たちが朝夕読誦している寿量品には良医病子の譬えがありますが,そこにもやはり,
色香美味。皆悉具足。擣筏和合。与子令服。而作是言。此大良薬。色香美味。皆悉具足。汝等可服。速除苦悩。無復衆患。(開結435)
(仏はすべての効能が備わっている薬を人々に飲ませようとした。そして「この南無妙法蓮華経はどんな症状にも効く大良薬である。だから信じなさい。さすればあっという間に苦しみが消え、悩みも不安も無くなるのだから」と言った)

と「色香美味」の大良薬が出て来てこの大良薬こそ末法間年の闇を照らす教えであるとしております。その教えとは何か,お釈迦様は熟脱の衆生の仏様ですから明確には示されておりませんが,それはまさしく御義口伝に


第八 擣篩和合與子令服の事
 御義口伝に云はく、此の経文の文は空假中の三諦、戒定慧の三学、色香美味の良薬なり。擣は空諦なり、篩は假諦なり、和合は中道なり、與は授與なり、子とは法華の行者なり、服すると云ふは受持の義なり。是を此大良薬色香美味皆悉具足と説かれたり。皆悉の二字は万行万善諸波羅蜜を具足したる大良薬たる南無妙法蓮華経なり。(1768)

と御指南の通り,末法にいたって初めて大聖人様がお説き始められた下種益の「南無妙法蓮華経」に他ならないのであります。

 さて、先ほど拝読致しました御文に
「五逆罪と一闡提と謗法をこそ、おもき病とは仏は いたませ給へ」
とございました。
生・老・病・死,または怨憎会苦(憎い者と会う苦)・愛別離苦(愛する者と別れる苦)・求不得苦(求めても得られない苦)・五陰盛苦(諸の煩悩による苦)のその根源は一体何かといえば,それはすべて「無明」,真理について明らかでないことに起因しているのであります。真実の正法を信じられない人々は無明の煩悩に支配されていてこの大良薬を飲めないのです。

寿量品の良医病子の譬えでいけば「毒気深入。失本心故。」の子供達が「此の好き色・香の薬において,うまからず。」と思って折角仏様が擣篩和合し,「五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頸に懸けさしめ」んと示して下さったこの南無妙法蓮華経の大良薬を素直に服せない人々のことであります。いかに大効能のある薬を用意しても病人がそれを呑まない限りは治るものも治らない道理であります。
その病人とは他でもない,自らの己義に執着して「日蓮さんも良いこと言うけど,私はやっぱり先祖伝来の信心は捨てられないよ」という人々であり、即ち謗法の人々であります。この人達には,目の前にこの大良薬があるにもかかわらず,自分の手にしている毒薬たる邪法邪師の邪義こそ無明を晴らす薬だと信じているのでいつまで経っても四苦八苦しなければならないのであります。

この謗法の害毒は必ず現れてくるのでありまして,種々御振舞御書に,
 疑って云はく、法華経の行者をあだむ者は頭破作七分ととかれて候に、日蓮房をそしれども頭もわれぬは、日蓮房は法華経の行者にはあらざるかと申すは、道理なりとをぼへ候はいかん。答へて云はく、日蓮を法華経の行者にてなしと申さば、法華経をなげすてよとかける法然等、無明の辺域としるせる弘法大師、理同事勝と宣べたる善無畏・慈覚等が法華経の行者にてあるべきか。又頭破作七分と申す事はいかなる事ぞ。刀をもてきるやうにわるヽとしれるか。経文には如阿梨樹枝とこそとかれたれ。人の頭に七滴あり、七鬼神ありて一滴食らへば頭をいたむ、三滴を食らへば寿絶えんとす、七滴皆食らへば死するなり。今の世の人々は皆頭阿梨樹の枝のごとくにわれたれども、悪業ふかくしてしらざるなり。例せばてをいたる人の、或は酒にゑひ、或はねいりぬれば、をぼえざるが如し。(新編御書 1071)

顕罰にしろ冥罰にしろ,必ず顕れてくるのであります。まさしくその一つの形として病があるのであります。ですからこの世に謗法の有る限り,現代病と称される難病奇病は後を絶たないと言っても過言ではないのであります。

もっとも,「一病息災」という言葉もありますし,小さな病気なら一つぐらいあった方が健康に留意をして人間は長生きすると言われますから,病気は有る意味で必要だともいえます。
例えば,余命数ヶ月などと宣告されますと,その病気をバネとして,発心し,仏道修行に邁進する例もありましょう。そういうところから,
「このやまひは 仏の御はからひか。そのゆへは 浄名経・涅槃経には 病ある人、仏になるべきよし とかれて候。 病によりて 道心はおこり候か。」(900)
との御指南があると拝する次第であります。
病気というのもまた諸法の実相の姿であることに代わりはないのであります。例えばお釈迦様も供養された豚肉を食して病を得,大聖人様も下痢の病いを召されて居ります。況や末弟子の我々が病を免れるはずはありようもありません。

「賢人は安きに居て危ふきをおもひ、佞人は危ふきに居て安きを欲ふ」(1168)
との御指南があります。信心をしている私たちは転ばぬ先の杖とて,常に健康に留意し,万一病気になったとしても,それをバネとして更に発心し、「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり」(1544)と言われる尊い宝を一日でも伸ばし,一日でも多く御本尊様に元気にお仕えできる様に心がけたいものであります。
以上誠にまとまりのないお話でしたが,どうも失礼しました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました