若有聞法者 無一不成仏 (開結P118)
H26.04.20
皆さんこんにちは。
私は只今御紹介に与りました本種坊にて御奉公させて頂いております小田切と申します。
本日はようこそ遠路はるばる、万障お繰り合わせの上、新緑の総本山大石寺に御登山なされました。
大聖人様は
「道のとをきに心ざしのあらわるゝにや」(乙御前母御書689)
と仰せられ、大聖人を慕って鎌倉から遠く佐渡の地まで幼子を連れて訪ねてきた御婦人の信心を愛でられました。
本日も沢山の方が大聖人様の御魂魄たる本門戒壇の大御本尊様へ恋慕渇仰の志を以て御登山なされていますが、本当に有り難い事と御同慶、申し上げます。
大聖人の仏法は「事の仏法」だということを言いますが、今現実に御本仏様の御魂魄ましますこの世界一の大霊場たる総本山大石寺に居合わせている皆様方は、それだけで過去遠々劫からの罪障消滅に向かわしめる大果報に浴されているのであります。
自我偈に「雖近而不見」「近しと雖も而も見えざらしむ」との文がありますが、信心がない人には仏様が見えないのであります。
たとえ隣に仏様がいらっしゃったとしても、それを見ることが出来ないのであります。それは謗法の果報だからであります。
御登山をしようと思ってもその都度、邪魔が入って中々果たせない、という人は過去に犯した謗法の余韻が残っているからであるとも言えましょう。
謗法の罪障が中々抜けないというその一例を挙げますと、不軽菩薩の上慢の四衆があります、
(法華経に説かれる不軽菩薩、皆さん既にご承知だと思いますが、あの不軽菩薩は全ての人に仏様の命があるので、あなたは信心修行さえすれば仏様になれるので、私はあなたのことを深く敬います、と会う人ごとに礼拝してまわったのであります。そうしたところ、人々は気味悪がって、この人を「軽んぜず」と書いて不軽とあだ名をつけてバカにしたり意地悪をしたのでありました。この、)
不軽菩薩を謗った上慢の四衆は不軽菩薩が成仏する様を見て不軽菩薩を謗ったことを反省し仏法を信じましたが、それでも尚、謗った罪障によって二〇〇億劫もの間仏法僧の三宝を見ることが出来なかった、そればかりかその後更に一千劫もの間無間地獄に沈んだ、とお経に書かれてあります。(開結五〇四)
つまり謗法を犯すと、二〇〇億劫もの間、因縁として仏祖三宝尊に近づきがたい巡り合わせとなってしまうのである、との明証であります。
『一代五時図』という御書に、
「謗法は一業引多生なれば、一度三宝を破すれば度々悪道に堕するなり」(一代五時図 四九四)
とありますように、謗法を犯した人は謗法の罪障によって今世だけでなく、来世も再来世も度々悪道に落ちる定めなのです。
言わば墮地獄のスパイラルとでも申しましょうか、そういう状態に陥っているのでありまして、こうした人達を救えるのは正しい仏法を信じている私たちをおいて他におりません。ですから皆様方にはぜひ本日御開扉を受けた大歓喜を元に、一層の折伏に励んで頂きたいと念願する次第であります。
さて、本日は「若有聞法者 無一不成仏」(にゃくうもんぽうしゃむいつふじょうぶつ)と題しまして少々お話を申し上げさせていただきます。どうか皆様の信行増進の足しになれば幸いでございます。
(どうぞ足をお楽になさって下さい。)
さて、最近取りざたされている話題にSTAP細胞の一件があります。
あれは要するに或る女性科学者が万能性細胞の新しい作成方法を発見したと発表したところ、発表論文中の掲載画像が見栄えを良くするためと称して、その実験で得られたものではない別な画像を使った、という事で俄に発表内容に疑惑が生じている、ということでしょう。
そんな夢のような技術が本当にあるのなら素晴らしいことだと思うので、是非彼女には嘘偽りはないと信じたい所でありますが、しかし迂闊にも科学者として決してやってはいけないタブーを犯していたのは事実のようですから、その点は突き上げられても仕方がないことであります。
まぁこれは科学の世界のことですが、どの世界に於ても、「それをやったらおしまいだ」というお作法があります。
以前、ある人から商売をするにも但儲かることだけを考えるのではない、商道徳というものがあるのだ、ということを聞いて感心したことがあります。
調べてみると色々あるようですが、その人は、クーリングオフか何かの件で、人に納得して買ってもらえるものを提供する事が商道徳なのだから、無用のものを詐欺まがいに押しつけて買わせるなどは言語道断で、商人(あきんど)失格だ というようなことを言っておられたように思います。
損して得を取れなどとも言いますが商人にはそういうお作法・掟があるのであります。
実は仏法にも「これをやってはおしまいだ」というものがあります。
それは己義・即ち自分の考えを信心に差し挟まない、ということです。
今回のSTAP細胞の騒動で分かったことは、科学という世界ではあくなき実験と証拠の確実性と客観的再現性がとても大事である、という事ですが、宗教と科学とでは依って立つ立場がそもそも違うのです。
宗教・・・私たちが宗教といった場合、これは仏法に違いありませんが、仏法に於ては、創始者である仏様が既に真理に通達されていて、その心の内に掴んだ悟りの内容を我々の機根に合わせて様々な形で説いて下さったのがお経であります。
(「教とは聖人下に被らしむるの言なり」三種教相事 五八・玄義)
しかし勿論私たちは、その八万四千とも呼ばれる膨大なお経は全て仏様の御本意の教えである法華経を説かんが為に設けられた方便・仮の教えであって、その方便の教えは真実か真実ではないか、と言えば、法華経以外のお経は全て嘘であり、不真実の教えである、と極論出来ることを、私たちは知っています。
ですから、仏様の真意は法華経にこそ籠められているということが分かっています。
科学と仏法が違うのは、科学が手探りで真理を探し求めているのに対して、仏法はもう既に、最初から仏様によって真理が用意され私たちに与えられている、という点であります。
だから私たちが改めて真理を探す必要は仏法の世界では無用のことなのでありまして、無用どころか寧ろ仏様が示された教えを曲げる仏法破壊行為・即ち謗法となるのです。
ゆえに、仏法に於て重要なのは、教えの侭に信ずる、行ずる、そして〝自分の勝手な考えを差し挟まない〟ことであり、これを破ったならば「それをやっちゃ~おしまいよ」となる訳であります。
例えば民主主義の原理たる多数決、これこそ大勢の人が幸せになれる方法を決める手段である、といって、これを仏法に当てはめたならばメチャクチャなことになってしまう事は容易に想像出来ることでしょう。
大聖人は、『聖愚問答抄』に
「汝只正理を以て前とすべし。別して人の多きを以て本とすることなかれ。」(聖愚問答抄 四〇二)
正しいかどうかの判断が大事なのであって、人が多いかどうかは問題ではない、
と誡められますが、大勢の人が言うことが必ずしも正しいとは限りません。
一人の正直者の主張が大勢の不正直者の意見によってつぶされるとしたら、この世の中は多数派工作による恣意的にとりまわされ、不正直なことばかりになってしまいます。
このように仏法ではない要素を組み込んだり、自分の考えで色々やり始めるということは結果的に仏様の示された真理を疑い、否定し、謗ることになる、即ち謗法となるからなのであります。
例えば浄土宗では末法に弘まるべき教えは浄土門、即ち念仏であるとして、浄土教以外の教えは有り難いお経だけれども捨てなければイケナイと主張します。
しかし法然以前にはその捨て去るべきお経の中には法華経は含まれていなかったのです。それを法然は捨閉閣抛という義を立てて法華経も大日経も捨てよと主張します。しかしそのような捨閉閣抛などという義は浄土三部経には書かれてありません。法華経も捨てよというのは正に法然の己義であって、大聖人は『守護国家論』(御書135)にて法然の言った、
「之に準じて之を思ふに、まさに密大及び実大をも存すべし」
の文をあげつらって破折をされています。
つまり「之に準じて之を思ふに」とは自分の考えをそこに混入させている明かな証拠であります。
そもそも浄土宗では一遍でも念仏を唱えたならば阿弥陀仏の救いの手がさしのべられる、と教えますが、しかしこれには「正法を誹謗する人と五逆の人は除く」とあって法華経を誹謗する者は阿弥陀仏も救済対象外としているのですから、法華経を捨てるなどはトンでもない謬りなのです。
また、真言宗では、法華経は真言宗に劣るのみならず華厳宗にも劣る第三の劣などと勝手に決めつけ、法華経のことを「戯論の法」などと悪口を言っていますが、その根拠はお経にはなく、ただ弘法大師が言った言葉が元になっているに過ぎないのです。法華経はまさしく
「四十余年未顕真実」(〇二三)
と開経の無量義経にて爾前経をばっさり切り捨てて露払いのうえ、安楽行品に
「此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て、最も其の上に在り」(開結三九九)
と明らかに釈尊一代の説教中、最勝・最高の教えであることが示されているのであります。
( 法華経が爾前経と決定的に違うのは二乗作仏と久遠実成の二点であると言われます。即ち誰でも・・・悪人でも女人でも二乗でも全ての人が法華経によって成仏することが可能である、ということと、仏様は今世にインドに生まれて、法を説き始めたのではなく、遠い昔から人々を導いてきた「もの凄い尊い存在」なのだ、という事です。)
にもかかわらず、弘法は勝手に法華経は大日経に劣るのみならず華厳宗にも劣るなどと位置づけているのです。
このようにお経に書かれていない自分勝手な考えを混入し、人々に罪福・功徳と罰を説くので、これは法華経にも背くし、自分の依経にも背く大謗法となるのです。
涅槃経には、(原典未検・諌暁八幡抄からの孫引き)仏滅後の悪比丘の所行を示して、
(爾の時に是の経閻浮提に於て当に広く流布すべし。是の時に当に諸の悪比丘有って是の経を抄略し分って多分と作し能く正法の色香美味を滅すべし。是の諸の悪人復是くの如き経典を読誦すと雖も如来深密の要義を滅除せん。)
「乃至前を抄(と)りて後に著け、後を抄(と)りて前に著け、前後を中に著け、中を前後に著けん。当に知るべし、是くの如き諸の悪比丘は是魔の伴侶なり」等云云。(諌暁八幡抄1532・孫引き)
とありまして、正に弘法や法然、及び自分勝手な己義を差し挟む輩は魔の伴侶である事が明らかです。
蛇足ながら更に一例を加えますと、創価学会はどうでしょう。
彼らがニセ本尊を作り、大謗法なのは言うまでもありませんが、一般的に見てもオカシイと思う事があります。
それは第一に仏法とは何の関係もない選挙活動を仏法の修行のように言って人々を選挙の票集めに駆り立てている点、
第二に単なる組織運営の寄付金集めを仏法に対する御供養のように装って人々から多額の資金を集めている点。
これは宗教とはかけ離れた世俗的な事柄であり、指導者の自分の勝手な考えを信仰に持ち込んだ「魔の伴侶」たる行為の一端であります。
創価学会員には是非こんなにも明々白々な邪義に是非気がついて、大聖人の仏法へ立ち戻って欲しいものであります。
以上述べましたようにこのように、仏法に於ては己義を差し挟むことは全くイケナイことなのであります。
又、本宗は相伝の仏法と言われるように、大聖人より師弟相対して伝えられた仏法を信ずる宗教でありますから、御法主上人を始め末寺住職に師弟相対することが大事であります。
さて、そろそろ本題に入りまして、
本日演台として掲げました「若有聞法者 無一不成仏」との文は、
「若し法を聞くこと有らん者は 一(ひと)りとして成仏せずということ無けん」(開結一一八)
と読みまして、法華経方便品の文であります。
この文の少し前には小善成仏、例えば小さな子供が戯れに仏様の供養塔を砂で作ったとしても仏道を成ずることになる、といった、小さな善行でも成仏出来ると言うことが説かれてありますが、
(それはこの甚深微妙なる法華経に依る事によって始めて可能になるわけでありまして、五仏同道と言いまして釈迦仏のみならず過去の仏様も、未来の仏様の化導の中に於ても方便の後に説かれた法華経こそが一切の仏法の根本であり真実の法であることには変わりがない、ということを示しています。)
しかしてそれはこの法華経に一念三千という仏法の一番大本となる大事な法理が秘沈されているから、かく、言いうるのであります。仏法的な物を崇めれば何でも良い、訳ではないのです。この一念三千を末法の私たちに南無妙法蓮華経の五字七字として与えて下さったのが大聖人様なのです。ここがよくわかっていないと、
『一代聖教大意』に、
「此の法華経は知らずして習ひ談ずる物は但爾前経の利益なり。」(九八)
と、また、『佐渡國法華講衆御返事』に、
「なをなをこのほうもんは、しでしをたヾしてほとけになり候。しでしだにもちがい候へば、おなじほくゑをたもちまいらせて候へども、むげんぢごくにおち候也。」(歴全一―一八二)
と大聖人・日興上人が示されますように、法華経という書物があって、それを自分で読みたいように読んで如何に遮二無二お題目を唱えたとしても、その果報は爾前経と変わらず無間地獄へ落ちる因縁となるのです。
ですから、「若有聞法者 無一不成仏」とある「聞法」の「法」とは、まさしく日蓮大聖人の三大秘法の法体たる本門戒壇の大御本尊に対する信行であり、この信心の存在を人々へ聞かしめる、即ち折伏することによって、どんな人でも必ず成仏させることが出来るのです。
『如説修行抄』には、
「諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なり」(如説修行抄六七三)
と、このように呼ばわり歩いて諸宗を破折してみなさいと説かれてありますが、この正直の法華経の信心を弘めると不正直の謗法の人達が目くじらを立てて大きな迫害が起きるのは必至だけれども、釈迦・多宝・十方の諸仏に迎えられ褒められる大功徳につながるのであります。
今、大聖人の仏法を信ずる私たちは、
「日蓮正宗以外の信心では地獄行きですよ。日蓮正宗だけが成仏の出来る唯一の信心なんですよ」
と声も惜しまず邪宗の人々を折伏出来ているでしょうか?
大聖人は、『一念三千法門』に、
「此の娑婆世界は耳根得道の国なり」(一念三千法門一一〇)
といって娑婆世界では耳で正しい教えを聞く事によって――、立場を逆に言えば「聞かせることによって」成仏することが出来るのだ、と仰せられています。相手がこの信心の話を聞いて信ずるか信じないかは冒頭にも言いました通り、その人の因縁であり、そんなことは二の次・・・、と言ってしまっては語弊があるかもしれませんが、しかし折伏をする前からどうだろうか、こうだろうか、と案ずる必要はないのです、とにかく
信心をしなければダメなんですよ
という事を言っていく・聞かせていくという具体的行動こそが大事なのであって、その結果相手が信ずるならば順縁として、謗るならば逆縁として、どっちに転んでも相手を救うことになるのですから、折伏の手を休めてはイケナイのであります。
この信心は幸せになるための理論を弄ぶものではありません、理論よりも実際に人々を救う行動こそがこの信心の真骨頂なのです。
たまに信心の話をするべき相手が居ない、という声を聞きますが、しかし考えてみて下さい。
そもそも一体、この日本に日蓮正宗という宗教があること自体を知らない人は何人居るでしょうか。一〇〇人や一〇〇〇人では済まないでしょう。何万、何十万人といるのではないかと思います。世界に目を転じてみましょう。日蓮正宗はおろか、仏法の存在すら知らない人達が雲霞の如く溢れています。
それだけ私たちの折伏を待っている人々が大勢いるという風には思えないでしょうか?
折伏をすべき相手が居ない、というのは、言い換えれば自分に縁のある人だけがこの信心で幸せになってくれればよい、とのみ考える一種の二乗根性であり、この態度は仏法が嫌う所であります。
九世日有上人は
「高祖の御言には王臣の御信用なからん程は卒塔婆の本、橋の下にても弘通すベし、一日片時も屋などに心安く有るべき事有るまじき事なり、然る間、世間の福貴之有るべからず」(有師物語聴聞抄佳跡上 富要一―二〇八)
未だ広宣流布をしていない時は菩提心を以て人々が通りすがるお墓や、人の往来のある橋のたもとなどでも折伏に立ちなさい、と勧められています。
真剣なる唱題と共に行ずる折伏には、不思議とそれを助けるような形で信心の話を聞いてくれる人が必ず現れて折伏が成就するのであります。これは法華経にそう書いてあるのですから間違いありません。
(若人在空閑 我遣天龍王 夜叉鬼神等 為作聴法衆 法師品三三三)
こう考えますと
「若し法を聞くこと有らん者は 一(ひと)りとして成仏せずということ無けん」一一八
この文は誰でも成仏出来るのだという有り難い教えであると同時に、人々が成仏する為にはこの仏法を聞かしめる人が、即ち正法を信ずる私たち、地涌の菩薩の眷属たる私たちの折伏が是非必要なんだという事も正に示しているのであります。
御法主日如上人は四月度広布唱題行において、
まさしく破邪顕正の折伏なくして、己れ自身も、また多くの人々も真の幸せを築くことはできないのであります。
(中略)
誓願達成は、険しい道のりではありますが、あらゆる困難を強盛なる信心で乗りきり、誓願を達成した時の歓びは、また格別であります。
されば『上野殿御返事』には、
「しばらくの苦こそ候とも、ついにはたのしかるべし」(同1479)
と仰せであります。
どうぞ皆様には、誓願達成を期して、講中一結して唱題に励み、その功徳と歓喜をもって折伏に打って出て、すべての支部が必ず折伏誓願を達成されますよう心から念じ(ます。)
と御指南を下され、『上野殿御返事』の
「しばらくの苦(くるしみ)こそ候とも、ついには たのしかるべし」(同一四七九)
との御文を引いて私たちを励まして下さっています。
この折伏の御命題は、これを我が事と捉えて一生懸命に励んだ人だけが大きな福運を積むことが出来るのです。
一日一善――!というテレビCMが昔ありましたが、一日一折伏、一日に一回は信心の話を未入信の人にしてみたらどうかと、提案させて頂きます。
つい先日は、韓国でフェリーが沈没するという事故があって今なお安否が気遣われている中、すでに多くの犠牲者が出て大変痛ましくご冥福を御祈り致します。しかし、あの犠牲になった若い方達は、まさかこのような形で最期を迎えることになろうとは、夢にも思っていなかったことでしょう。
他人に起こったことは当然自分にも起こりうると思うのは賢い人です。事程左様に、自分が折伏という尊い仏道修行に励めるのは僅かな時間しか残されていないかも知れません。いまわの際になってから力の出し惜しみを後悔しないよう、共々に頑張って参りましょう。
そうでなくとも、平成二十七年の御命題達成に残された時間は今年いっぱいであります。待ったなしの背水の陣を敷くべき正念場であります。御聴聞の皆様方にはどうかこの度の御登山の功徳にて、更なる折伏貫徹に向けて御精進を切にお願い申し上げまして、本日の法話とさせて頂きます。
ご静聴ありがとうございました。
以 上
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