「さる間、成仏は持つにあり」H24.02.16

法話の僧侶 法話

「さる間、成仏は持つにあり」

 皆さんこんにちは。
 本日は、大聖人様の御誕生会、と言うこともあってか、多数の方が御参集になられ、法を求める皆様の深い御信心の姿は誠に尊いものであると、御同慶申し上げる次第であります。
本日は「さる間、成仏は持つにあり」と題しまして少々お話を申し上げたいと思います。
 さて御存知の通り、大聖人様は今を去る七九〇年前の今日、安房国(あわのくに)長狭郡(ながさのごおり)東条郷(とうじょうごう)小湊、今の千葉県の房総(ぼうそう)半島の外房(そとぼう)に漁師の子としてお生まれになりました。それから清澄寺に登って出家され、更に比叡山を始め各宗派の奥義を究め、最終的には法華経こそがお釈迦様の随自意の教え――、
 即ち随自意と言いますのは、「嘘も方便」などという言い方を世間でもしますが、そういう真実ではない方便が一切混ざらない、お釈迦様が私たちに本当に教えたかった悟りの内容そのもの、それこそが法華経であって――、
そしてその法華経に説かれる最も根底にあるものが「南無妙法蓮華経」なのだということを私たちに教えて下さったのであります。


※「妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意ならくのみ」四信五品抄一一一四

 そしてこの「南無妙法蓮華経」とはお釈迦様のみならずありとあらゆる仏様、過去に出現された全ての仏様も、また未来に生ずる全ての仏様さえも、とにかくあらゆる仏様がその成仏される時に修行された、或いは修行される根本の法である、と示されたのであります。
 私たちはこの「全ての仏様が成仏するために必須の法」を教えて下さったこのお方こそ、実は一番根本の仏様、即ち御本仏様なのだ、と拝信しているのであります。
 しかしこのように言いますと、世間の人は「仏」といったらお釈迦様に決まってるじゃないか、と言うことでしょう。
 そして、「どうして鎌倉時代に現れた一人の僧侶に過ぎない日蓮大聖人が仏であるなどといえようか」、と笑うかも知れません。
 世間の人だけではありません、日蓮大聖人を宗祖と立てる身延日蓮宗も、「仏と言えばお釈迦様に決まっている」という世間同様の見方を拭いきれず、大聖人様を差し置いて結局お釈迦様を釈尊像を御本尊として拝んでいるのです。
 しかし冷静に考えますとお釈迦様も歴史上に現れた紛れもない「人」であり当時は「単なる出家者」だったのです。大聖人様を歴史上の一介の僧侶であるからというだけで蔑ろにするのは「かゝる日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし」(種々御振舞御書一〇六六)と種々御振舞御書に言われる所の謗法・亡国の捉え方なのです。
 大聖人様は古い人が尊く、新しい人が劣っている――、
 或いは多くの人が信用しているから尊く、少ない人が崇めているから卑しい――、
と速断するのは間違っていると諭されています。


※(天台宗を真言密教に変質させた慈覚大師・智証大師をさして)此の人々は賢人・聖人とはをもへども、遠きを貴んで近きをあなづる人なり (妙一女御返事1487)
※必ず多きが尊くして少きが卑きにあらず。賢善の人は希に愚悪の者は多し。 (聖愚問答抄401)
※遠きを尊み近きを賤しみ、死せるを上げ生けるを下す。
(大学三郎殿御書885)

 正(まさ)しく私たちはこの鎌倉時代に僧として御出現された日蓮大聖人様を、その説かれた御法門の上に置いて、また大難四箇度、小難数知れず との法華色読の現証の上に置いて、このお方以外にお釈迦様から末法の弘通を任された上行菩薩の再誕はあり得ないと見ます。
 またそうであれば法華経法師品に、

人有って仏道を求めて 一劫の中に於て合掌し我が前に在って 無数の偈を以て讃めん是の讃仏に由るが故に 無量の功徳を得ん持経者を歎美せんは 其の福復彼に過ぎん

(開結三二四)


もし或る人が仏法を求めて一劫という長い間、仏様に合掌して無数の言葉をもって褒め称えたとするならば、無量の功徳を得ることでしょう。けれども末法の世に於てこの法華経を持つ行者を褒める功徳はそれ以上である、 (開結三二四)
ということが――、即ちお釈迦様よりも大事な方が末法に現れるのだという信じがたい事が不思議にも法華経に書かれてありますが、大聖人様はそういう大事なお方なのだという事が分かるのであります。
 そして先ほども言いましたが仏様の種となる「南無妙法蓮華経」の法体を十界曼荼羅として顕され、私たちに「釈尊程の仏にやすやすと成」(新池御書一四六〇)る事の出来る信心を教えて下さったのです。その結果から見れば、姿形は如何に鎌倉時代に生まれた僧侶であったとしてもその御内証は紛れもなく久遠元初の御本仏様であると我々は深く拝信するものであります。
 他の宗教の神仏――、例えば大日如来とか阿弥陀仏、西洋で言えばアラーとかヤーウェなどはおよそ人間とかけ離れた存在であって、この世に姿を以て現れたと確認できないものばかりであります。これらは因果を無視した空想上の存在と言わざるを得ません。
 法華経が他の教えに勝れる点に能所不二という事があります。能化・砕いて言えば先生である仏と、生徒である私たち所化とが不二、つまり私たち衆生も仏と一体となる事が出来る、成仏することが出来る、ということです。
 法華経以外の教えでは救い主と救われる側が同じ境涯に達するということは決して説かれません。
 如何に金ピカの神々(こうごう)しい神仏を立てて、その尊さや威力を誇ったとしても、信者はその教えではそれらの神仏そのものには決してなることは出来ないのです。
 実は法華経の中でも三十二相八十種好を以て荘厳されたお釈迦様は、態(わざ)とそういう姿を以て人々に尊とまれるように、信仰心を起こしやすいようにしているので「有作」であり、取り繕っているので本当の姿ではないのです。
 では本当の姿とはどういう物かと言えば寿量品に「我本行菩薩道」とあります。これを日寛上人は開目抄愚記に、

「故に大師、この文を釈して「初住に登る時、已に常寿を得たり」と云云。当(まさ)に知るべし、後々の位に登る所以は並びに前々の所修に由る。故に知んぬ、「我本行菩薩道」の文底に久遠名字の妙法を秘沈し給うことを」

(御書文段六七A)


と述べられて、そういう神々しいお姿になる為にはその前に修行を重ねられていたのでありまして、この「我本行菩薩道」(寿量品433)の所に最も根源的な仏様の種を見いだすことが出来るのであります。
大聖人様は、『御講聞書』に

因と云ふは信心領納の事なり。此の経を持ち奉る時を本因(ほんにん)とす。其の本因の侭(まま)成仏なりと云ふを本果(ほんが)とは云ふなり。日蓮が弟子檀那の肝要は本果より(も)本因を宗(むね)とするなり。本因なくしては本果は有るべからず

(御書一八二〇㌻)


と教えられて五百塵点劫の当初(そのかみ)における久遠元初の本因、つまり修行の状態が即ち成仏なんだということを明かされています。
 こうしてみますと大聖人様が『顕仏未来記』に、


安州の日蓮は恐くは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通す。三に一を加へて三国四師と号づく

(顕仏未来記六七九)


と法華経を弘通する法華経の行者の系譜として三国四師を挙げられてます。
 即ち、このインド・中国・日本の三国にお釈迦様、天台大師、伝教大師、この三人に大聖人を加えて三国四師とされていますが、ここで注目したいのは、お釈迦様も法華経の行者、なのです。
 つまり仏とは、ある高い境涯に安住してそれで良しとするのではなく、どこまで行っても修行をされているのです。その常に修行している姿がそのまま成仏の姿なのです。
 因みに参考までに法華経宝塔品では他の世界から来た菩薩がお釈迦様に対して

「少病少悩にして、気力安楽にましますや」

(宝塔品 開結三三四)

と病気や悩みが少なくて安楽でいらっしゃいますかと挨拶をされています。これを見れば、仏様は我々と同じように病気にすらなるのです。
 また自我偈の最後に、
「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」
と御座いますが、これも書き下しますと
「毎に自ら是の念を作さく 何を以てか衆生をして無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめんと」
となりまして、衆生をどうにか救おうと悩まれているのです。つまり仏様にも悩みがお有りになるのです。
このように仏様とは私たちと同じ修行者の側面があるのは確かなのです。
 そもそも仏法ではこの世の中のありようを「有為転変」と見ます。つまり世の中は常に移ろいゆくものと捉えているのです。
 その観点から言いますと、「もう完成した」というものは真実ではありません。それは完成した、と言ったその瞬間からすでに崩壊が始まっているからです。
 実は常に完成を目指すその中にこそ、真の完成の姿があるのです。
 昨年暮れのテレビで人体が老いるとはどういう事か、ということをやっていて興味深く見ていたのですが、要するに人の体は常にクラッシュアンドビルドといって一方で細胞が壊れ、一方で細胞が新しく作られている。これで若々しく健康な体を維持出来ているのです。
 しかし或る病気にかかった人はこのクラッシュアンドビルドがなされない、そうするとまだ少年なのにどんどん見た目が老人の様になっていき、以前出来ていたことが段々出来なくなる。日焼けひとつにしても細胞が再生するからこそ私たちは小麦色になるまで日光浴を楽しむのですが、細胞が再生しないのでは焼けたら焼けたまま、下手をすると命取りになってしまうのであります。
 他の宗教で説く、完全無欠、無謬の神仏が本当だとしたら、修行者がその神仏に近づけば近づくほど人間とは懸け離れた化け物のような存在、或いは道理を無視した言動にならざるを得ないのです。
 口から皮がむけて毘盧遮那仏になったという弘法大師や、ガリレオに天動説を押しつけた無謬であるはずのキリスト教会が過ちを訂正したり、イスラム教の聖者が神と合一した結果、瞬時に弟子達を切り殺したり、といった破綻を来すのです。


※面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る(報恩抄一〇二七)
※ローマ教皇庁ならびにカトリックが正式に天動説を放棄し、地動説を 承認したのは、1992年の事である(wikipedia)
※バスターミー(学研イスラム教の本P105)


 人体が新陳代謝によって若々しく健康でいられるという仕組みは、私たちの成仏にも同じ事が言えます。
 即ち私たちは日蓮大聖人様の教えられたこの南無妙法蓮華経をこの御本尊に向かって唱える事により、一瞬一瞬の命の中に仏の境涯を顕していくことが出来るのです。
 その身は飽く迄、拙い凡夫でありますが、信心に徹していく中で一瞬一瞬を仏と同じ境涯に立たせていただいているのです。
 されば演題にも掲げましたように『四条金吾殿御返事』には、


此の経をきゝうくる人は多し。まことに聞き受くる如くに大難来たれども「憶持不忘(おくじふもう)」の人は希(まれ)なるなり。受くるはやすく、持つはかたし。さる間、成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難に値ふべしと心得て持つなり

(四条金吾殿御返事 七七五)


と御座います。
 御授戒を受け、御本尊様を御仏壇に安置しているだけではダメなのです。「さる間、成仏は持つにあり」と示されるように、どのような大難が競い起ころうとも退転しない信心を保ち続けることが成仏の大前提なのです。
 御法主(ごほっす) 日如(にちにょ)上人は

行解を勤めることによって三障四魔が紛然と競い起こるのです。ですから、何もやらない人のところには三障四魔も現れないのです。「お前なんか相手にしないよ」ということで、魔も相手にしてくれないのです。「私のところには三障四魔が競わないから、これ幸いだ」などと思っているようではだめなんですね

(平成18年度 第4回法華講夏期講習会)


と魔の起こらない信心では本物ではないと御教示下さっています。
 その為には日々発心し、精進することが重要なのです。
 世間でも「困った時の神頼み」という言葉がありますが、常日頃ろくな信心をしていない人が、いざ困った時に御本尊様に縋ったとしても中々願いを叶えては頂けません。
日々仏様と向かい合ってこそ信心なのです。


 皆さんは「木仏長者」という昔話を御存知でしょうか。これは山形の民話だそうですが、
 ある長者の家に金ぴか立派な仏が祀られていました。
 それを見た奉公人が、それを真似して仏像に似た木切れ拾ってきたのを仏像に見立ててお祀りし、毎日お膳とお水をお供えをしました。すると他の奉公人がこれをバカにします。しかしその奉公人は木の仏像を拝み続けます。その内、そんなにその木の仏が有り難いのなら、長者さんの金の仏と、おまえさんの木の仏と、どっちの仏が勝れているのか勝負させようじゃないか、ということになり、長者さんもこれに乗っかって、木の仏が勝ったらお前を長者にしてやる、ワタシの金の仏が勝ったらお前は一生ただ働きをするのだぞ、と仏像に相撲を取らせて勝劣を決めることになりました。
 権仏であれ仏様に相撲を取らせるなどと大変乱暴なお話ですが、結局この勝負、木の仏様が勝って約束通り次の日から奉公人が長者となり、長者は奉公人へと身分を落としたのであります。
 落胆した元長者が「どうして負けたんだ」と金の仏を詰(なじ)りますと、金の仏は「御前様は正月の元旦にしかお供えがなくて、中々手も合わせてくれない。これじゃ、力を出そうにも出せやしないじゃないか。一方木の仏は奉公人に毎日拝まれていたからとても強くて叶わなかった」
と答えということであります。
何でも拝めば良いというわけではありませんが、要するにこの昔話の言わんとする所は毎日信心をしなくては中々功徳は頂けませんよということなのです。

本年度の年間実践テーマに謳われている
・家族そろって勤行・唱題
・全講員で折伏実践
・新入信者と共に支部総登山
これはどれも大事なことですが、特に、
「家族そろって勤行・唱題 」ということは当たり前のようですが信心の根底をなす実に大切なことだと思います。
 仏法では「一切皆苦」といいまして、この世は元来苦しみの世界であると説きます。
よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ (聖人御難事一三九八)
と大聖人様も仰せになられております。
私たちは平穏無事で居られることの方が不思議なのです。
 この苦しみに満ちた世界に朝、仏様へ・御本尊様へ読経唱題の御挨拶もせづに世間に一歩を踏み出すのは、何の装備も持たずに嵐や吹雪の中を出かけるようなもので危険この上ないことなのです。
ですから朝晩の勤行は大事なのです。
また「家族そろって」即ち、おじいさんおばあさんから小さなお子さんに至るまでが御本尊様の前に座って、一緒に「勤行・唱題」を行う事が本当に大事なことなのであります。
特に小さなお子さんにとって、一緒に勤行をした、という記憶は一日一日は小さな物かも知れませんが、それが一月(ひとつき)二月、一年二年と重なっていく内に、仏様に守られ、福運という見えないけれども確かな、そして掛け替えのない大きな宝となって身についていくのであります。
 戒律のことを梵語でシーラと言いますが、この意味は〝屡(るる)行う〟というものでありまして、そこから転じて、行為、習慣、性格、道徳、清浄行、等の意味を合わせ持つのであります。
要するに我々凡夫は浅はかな考えや行為に陥りがちですが、仏法にこの身を合わせていくことで、つまり戒を持っていくことで、自然と仏様の境涯に近づいて行くのです。
本宗は法華経を依経とする実大乗の信心であって、些末な戒律という物はありませんが、法華一乗戒と申しますのは法華経の信仰を持ち続けることを言います。
即ち、宝塔品に
「此の経は持ち難し 若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す 諸仏も亦然なり」(開結三五四)
とあり、持ち難いこの信心を持つこと、これが法華経の戒と言えます。先ほども挙げましたが
受くるはやすく、持つはかたし。さる間成仏は持つにあり(四条金吾殿御返事七七五)
と言われますのもこの点にあるとも拝せられます。
ですから毎日の家族揃っての勤行唱題は大事なのです。
 天変地夭、人心荒廃、国家窮乏の秋、宗門はいよいよ末法の様相を呈してきたこの世の中に、清気清風を送って正法を以て立て直すべく御法主上人より平成二七年・三三年の具体的御命題を賜りました。
 昨年は全支部がこれに応えて奮励し約99%もの支部が折伏誓願目標達成という未だ曽て無い快挙を成し遂げました。
 いまや宗門は折伏大行進の時代であります。皆様方におかれましても分々に折伏布教に励まれておいでかと思いますが、これは決して誰かのためではないのです。
 先ほど来述べてきましたがこの信心はどこまで行っても修行なのです。仏様も法華経の行者なのです。
 特に他の人へ下種結縁する折伏行に励む時、私たちは限りなく仏に近づいているのですから、そうはさせじとその反作用として必ず三障四魔が競い起こってくるのであります。しかしどのような大難が起ころうとも「良し、来るなら来い」と正面から受けきって、御命題達成を成就して参りましょう。
 皆様方にはどうか元気で、信心に励まれ、沢山の功徳を積まれますことを御祈り申し上げまして、本日のお話しとさせて頂きます。
御静聴ありがとうございました。
以 上

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