今回の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、面白く見ています。
頼朝は法華経を信じていたと聞きましたが、確かに読経しているシーンがよくあります。
妻の北条政子が戦勝を祈るしかないと唱えていたのは、神力品の四句の要法の所でした。
読経中に家来に声をかけられ憮然として応ずるシーンなどもありましたね。
やはり信心とは毎日、勤行をすること、これが大事なのです。
頼朝は敵に見逃がされたり、連れ込んだ女の主人が怒鳴り込んで来たせいで敵襲を免れたりと天佑を被っています。
天に護られているお人、という評がたつのですから御利益に与っていたのでしょう。
頼朝は仏像、薬師如来かな?に手を合わせて居ますが、これは大聖人様が誕生される前のお話です。
大聖人様は、
「日蓮世間に出世すと云へども、三十二歳までは此の題目を唱へ出ださゞるは仏法不現前なり」(御義口伝1843)
と、立教開宗からが大聖人の文底下種仏法の始まりである旨表明されていますから、それ以前は、仏像に法華経を唱えていても功徳はあったのでしょう。
しかし
「仏法は時によるべし」(開目抄578)
と仰せのように、広まるべき時と機が合致していなければ功徳はありません。
例えば地デジ放送が始まるまでは、普通に見れていたテレビも、地デジに切り替わった途端に映らなくなるようなものです。
テレビは故障した訳ではないのに、その時が来たために映らなくなるのです。
沼津のホームで、ここから前3両は御殿場線に切り替えです、御利用の方は御移動下さい、というアナウンスを聞き漏らして、熱海に行くはずだと乗ってたら別の所へ連れて行かれてしまう、ようなものです。
建長5(1253)年以降は、日蓮大聖人の唱える南無妙法蓮華経を唱えて法華経を信じなければ、功徳を積むどころか、罰当たりな事になって逆に功徳を摘むことになってしまうのです。
「謗と云ふは但口を以て誹り、心を以て謗るのみ謗には非ず。法華経流布の国に生まれて、信ぜず行ぜざるも即ち謗なり」(戒体即身成仏義10)
と。ですから、頼朝のように、日々真剣に、御本尊様へ五座三座の勤行を欠かさない信心、これを敢行していけば必ず様々な危害から護られるし、人としての正道を歩んでいけるのです。
作中に描かれる、女性にだらしがないような、人であっても、いつの間にか大事を成すことが出来るのです。
これを目にしたあなた、信心をしているなら、いよいよ勤行に励みましょう。信心をしてないなら、今すぐ日蓮正宗のお寺を検索しましょう。
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