断常の二見

/大白法 N365-(H04.06.16) 日顕上人 /T御講義 守護国家論(3)平成4年春季総登山の砌㊦

(涅槃経に『即・波羅那国に於て正法輪を転じて中道を宜説す』と「中道」の語のあることについて)

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 しかしこの場合の中道というのは小乗の中道です。身見や断常の二見、更に邪見あるいは外道の戒禁等極端に偏った教えを破って中正の道を示す。それが小乗

/C写真/P3-6

の中なのです。生活でもいろいろな物事について、皆さん方がうまく偏らず、例えば子供に小言いうのもね、あまり怒り過ぎないように、かといってあまり放任もし過ぎないように、というような中道を考える。これはやはり大事なことです。何事も一方に偏ってはいけないのです。皆さん方は賢明でいらっしゃるから、絶対にそういうことはないでしょう。ですからいつも中道を常に心掛けていらっしゃると思います。あまり一方に偏るということは良くない。この精神生活上の智慧はやはり仏法の智慧の一分であります。多くの人は知らないけれども、仏法が根本となって、そこに中道の意味からの智慧が、生活の中にも現われてきているのです。
 法華経の本当の中道という意味から、大乗別教の中などいろいろな面での見方があるわけです。
 さてこの経文の如く小乗の教えの中にも、やはり中道として示される道があるんですね。例えば、人は苦から離れることを願うけれども、また楽を願うのであります。つまり誰でも苦はいやですし、楽を願うのです。けれどもその楽ということにあまり執われるといけない。実は苦と楽との執われを共に離れたところに、やはり本当の正しい生活の上の心がそこに存在するわけであります。本当に楽にばかり執われると、やはり人間が馬鹿になるでしょうね。本来の道理を忘れて眼、耳、鼻、口舌、身の五欲の楽しみばかり追求していく、今の人間の傾向としてそれがありますよ。この平成の時代において、よくグルメ、グルメといってね。もう寝ても覚めても舌の味わいのみに執われている。今はテレビでもいろいろ報道しますかね。ああいうことも必ずマイナスの反面が出てくるのです。その証拠に日本人には脳卒中とか、成人病とかが増えているといいます。またガンが増えているというでしょう。それは欧米流の会事になって、グルメ街道まっしぐらにいくもんだから、そういうふうな病気が増えてきているともいわれるわけで、いわゆる病因病果です。結局、人間楽しみにばかり執われることも良くない。あらゆる意味で享楽(きょうらく)ということは人間を楽にさせ楽しませるけれども、これに執われすぎると必ず大

/C写真/P3-7

きなしっぺ返しが来るんですね。やはり苦を離れ楽を離れたところに、執われないところに、本当の意味があるということが小乗で説く中道なんです。離苦楽(りくらく)という。
 もう一つの小乗の中道では断常の二見に対して、離断常(りだんじょう)といって断見(だんけん)を離れ、常見(じょうけん)を離れたところに中道があります。断見というのは、生まれる前は我々の存在は何もなかったのだというのです。父母の因縁や業によって我々人間が生まれてきたんだ。生きてる間は人間として存在するけれども、死んでしまえばなくなるんだ、あとは何もないんだと固執する。それが断見であります。これはやはり非常に大きな間違いで、その間違いを知ってる人間がいない。今の世間の人間はほとんどが死んだら何もないと思っている。だから生きているうちにいくら悪いことをしたって、どうせ死んでしまえば同じだと思っている。馬鹿な話です。絶対そんなことはありません。今、邪義に執われた創価学会の連中は、本当に将来のことを恐ろしいと思わないから嘘や悪口が大変多いようですが、よくこの後生が恐ろしくないものだと思います。やはりこれはいつの間にか、池田大作なる者の指導と考え方が狂ってるから、基本的に断見になっている。最近の様々な学会員の悪現象を何とも考えない。死んでしまえば何もないんだろうから大丈夫だなんて思っているようである。そうじゃないんですよ。三世の因果の恐ろしさを忘れているのです。かといって今度は、世間では今、霊感だとか霊魂だとかいろいろなことをいっているが、霊魂として存在するというのですね。だから人間死ねは全部霊魂だというんだ。ところが、死んだあとそれを霊魂だと執われるのは常見というのです。これも誤った考えで、仏法は因縁を説いています。一が一でいくのも因縁なら、一が多となるのも因縁、まったく変化するのも因縁です。ですから、一つの物がそのまま霊魂として存在していく、つまり個体がそのまま霊魂として永久に存在していく。これは己我に執われた外道の考えなのです。その辺が難しいから多くの人がそこに執われている。
 どうしても仏教は正しい教えだから、中道を説く故に難しいんですよ。けれども、断見、常見を離れたところに、本当の生命の永遠性もあれば中道もある。それは因と縁ですから、一人ひとりの人間の存在は、一人の人間だけで存在しているというわけではないのです、本来は。それを一人ひとりが、俺が、俺だけが、になってしまう。自分のみに執われる。いわゆる、我に執われるから自由のない生命観におちてしまう。この世の中の一人として、独りで生活できる者はいない。第一、着ているものだって自分が作った物ではない。全部がお互いの相資相依の上の存在である。こんなことくらいは一応わかるけれども、この道理が宇宙法界の法理の上から、生命の根底的存在において存するわけであります。
 中道の意義は無限ですが、一往の小乗の中道を申し述べた次第であります。あまり進みませんでしたね。「阿含経を説くなり」のところ、つまり終わりから五行目でしたね。今日はここまでにいたします。お疲れさまでした。
          (文責在編集部)

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