宗教は教団の金もうけにすぎないのではないか

ottatto
唱題会の後に「正しい宗教と信仰」(正宗信)を読んでます。
先日は(11. 宗教は教団の金もうけにすぎないのではないか)
https://www.kochi-hougonji.jp/4-5.htm#11

を読みました。(LINEで開けない場合は「…」アイコンをタップしてデフォルトのブラウザで開く、を試してみて下さい)

たまに「日蓮正宗はお金がかからないのよ」と知人を誘ってお寺につれてくる人が居て、これも仏縁だからと思い苦笑いをしつつ、この上記の正宗信の項目のような事を説明するのですが、既に金がかからないと言うから話を聞いてやりに来た、という心根ですから、後から、これにはこれだけお金がかかります、などと寸言でも聞こうものなら、もう結構です、という運びになってしまいます。

これはひとえに私の信心と熱意と力量の無さに帰結するものと、反省しているところですが、

一昨日でしたか、こんな記事を目にしました

中国自動車メーカーのルール無視、長城汽車会長「中国の世界的な評判を傷つける」―中国メディア(2024年10月16日)|BIGLOBEニュース

https://news.biglobe.ne.jp/international/1016/rec_241016_0434326925.html

要するに、安く有りさえすればそれでいい、という顧客をいくら増やしても、その商品サービスは栄えることはない、ということですね。
確かに中国製品には顔がありません。型番すらなく、アフターサービスも保障もない。
ただ安いだけです。

本当に価値のあるものは、代価を支払ってでも手に入れるべきものなのです。
これを、ズルをして安く手に入れようとすると、まがい物の粗悪品を掴まされて安物買いの銭失いとなってしまいます。

そうであるところ、日蓮正宗の御本尊様への信心の御利益は、無上のものです。
有形無形に我が身を飾り、また周囲を福徳で照らし出す効能があります。

これを得るには、ただ信心の志あるのみです。

それはお金のご供養だったり、時間を割いての寺院参詣だったり、24時間分の1時間を朝晩の勤行に費やしたり、信心に関わる色々です。

それをケチったら功徳も減る、あるケースではマイナスになってしまいます。

例えばお寺に行くにもガソリン代がねぇ…、とかいいつつ、一日にタバコを3箱も吸っている人などは、マイナスになっているように思います。

かつて柳沢喜惣次という方が言ってました
御供養は宇宙銀行のようなものだ、信心で使ったお金は、不思議にもあとで必ず少し多くなって戻って来る(趣意)
と。
私も体験的にこれはそうだなと思います。

まぁ金銭のことはともかくーー、
人生百年の時代、本当の価値は三世に渡って価値が減損することのない「福徳」にこそあるのです。

常に自発的に物心両面こ御供養を心掛け、特に呼びかけられたら功徳倍増の好機、と勇んで賛同しましょう。

それが自他共に大きな功徳となりますから。

「仏になりやすき事は別のやう候はず。旱魃にかわけるものに水をあたへ、寒氷にこゞへたるものに火をあたふるがごとし。又、二つなき物を人にあたへ、命のたゆるに人のせにあふがごとし」(上野殿御返事1528

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