第一章 御誕生
(一)旃陀羅が子
陽光うららかに照り、潮風さわやかに吹き渡る貞応元年(一二二二年)二月一六日午(正午)の刻、日本安房国小湊の海辺にひとりの聖児が誕生した。
父の名を三国大夫(貫名次郎)重忠、母の名を梅菊女という。この聖児が誕生した時には、地から清水が湧き出て、青蓮華が開くという奇瑞が現じた。幼名を善日麿と名づけなれたこの聖児の誕生こそ、法華経の行者日蓮聖人が閻浮提の民衆を救済すべく、日本に出現された意義深き一瞬であった。
当時の二月一六日は現行の太陽暦に換算すると四月六日であり、温暖の地安房小湊の里は草木萌え出ずる春たけなわの季節であった。
大聖人出生の家柄は、父の重忠も、母の梅菊女も、もとは名のある家の出であったようであるが、大聖人御誕生の時には、当時の封建社会ではもっとも地位の低い階級とされる漁夫であった。
大聖人は、この漁夫の子として誕生されたが、御自身の出生を、仏法上の意義を踏まえて、後年次のように仰せられている。
『佐渡御書』に
「日蓮今生には貧窮下賤の者と生まれ旃陀羅が家より出でたり」(新編五八〇頁)
『善無畏三蔵抄』には
「日蓮は安房国東条片海の石中の賤民が子なり」(新編四三八頁)
『中興入道消息』には
「日蓮は中国・都の者にもあらず、辺国の将軍等の子息にもあらず、遠国の者、民が子にて候」(新編一四三一頁)
『妙法比丘尼御返事』には、
「民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり」(新編一二五八頁)
と、大聖人はみずから「旃陀羅が家」「賎民が子」「民が子」と仰せられている。
「旃陀羅」とは、梵語で(チャンダーラ)と言い、屠者・殺者等と訳し、漁師とか漁夫など、生き物を弑すことを職業とする屠殺者の名称である。古代インドにおいては、仏教の不殺生の戒律に背く職業として、もっとも低い身分・階層とされていた。
大聖人はこのようなもっとも身分の低い階層より出生されたのである。
かの釈尊は、中インド・迦毘羅衛国の城主・浄飯王の太子として出生されたが、これは脱益の化導すなわちすでに機根が熟している衆生を導く仏として、国王の子となって誕生されたのである。それは種姓の尊貴を示して、民衆に信じ易からしめるためであった。それと同じく、脱益仏法の偉大な伝燈者である竜樹・天親等の大論師も、その種姓はインドの四姓(ヵースト)のうちで最高位である婆羅門階級であった。また、中国の天台大師や、日本の伝教大師も社会的に高貴な王族の家柄より出生している。
さらに、当時の日本仏教の派祖をみても、法然は地方豪族の子であり、栄西は神官の家より出で、親鸞・道元等もそれぞれ貴族の出身であった。
大聖人がこうした在世や正像二千年の仏・菩薩・人師・論師と異なる民衆階層より出生されたことについて、二つの理由が挙げられる。
第一の理由として、「末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり」(新編一七七九頁)と示されるように、大聖人は末法の本未有善・三毒強盛の衆生を下種の妙法をもって救済するために、示同凡夫の御本仏として出現されたということである。
第二の理由は、釈尊の予言である。
法華経『神力品』の中に、
「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅す」(新編開結五一六頁)
と説かれており、末法出現の仏は、宇宙法界の尊極の法を一身に所持し、あたかも、太陽の光が闇を滅し、一切を養育するように、末法悪世の衆生を済度することを示されているのである。そして、この経文に説かれる「斯の人」こそ「世間に行ずる」仏であり、凡夫の姿をした仏であることの意味がうかがわれる。まさしくこれは、大聖人を予証されたものであり、法華経『勧持品』にも「悪口罵詈・及加刀杖の難」「軽賤誹謗の難」「数々見擯出」等と、末法における法華経弘通の難を示されている。もしも、法華経の行者として、これらの難を蒙る人が出なければ、釈尊出世の本懐たる法華経は、すべて虚妄の言葉となる。
仏教の歴史の中で釈尊滅後二千余年の間、日蓮大聖人こそ、この経文を身読なされた空前絶後ただひとりのおかたであり、大聖人によって、法華経が真実であり、宇宙法界を貫く大真理であることが証明されたのである。
大聖人の御一生が、法華経弘通による法難の連続であったことからも、大聖人こそ真実法華経の行者であることの証明がなされたといえよう。
『開目抄』に
「其の上下賤、其の上貧道の身なり」(新編五三八頁)
と仰せられている。もしも、大聖人が帝王貴族などの種姓に誕生されたならば、その家柄の尊貴により、身命に及ぶほどの四ヵ度の大難は起こらなかったであろう。下賤の家に生まれればこそ、重畳する大難をも忍ばれ、法華経の予言を真に実証することができたのである。
大聖人が旃陀羅が子として出生されたことは、これらの深い意義をもっているのであって、決して単なる偶然でもなく、また賎民だからといって恥ずべきことでもなかったのである。
(二)瑞相
大聖人の御誕生には、種々の不思議な瑞相があった。後年、大聖人の口伝法門を第二祖日興上人が筆録された『産湯相承事』は、大聖人の御誕生を知るうえに、欠くことのできない重要な相伝書である。
その中に、両親が不思議な夢をみたことが記されている。
まず、大聖人を懐妊された時、母君の夢は
「有る夜の霊夢に曰はく、叡山の頂に腰をかけて近江の湖水を以て手を洗ひ、富士の山より日輪の出でたまふを懐き奉る」(新編一七〇八頁)
というのもであり、父君の夢は
「虚空蔵菩薩貌吉児を御肩に立て給ふ。此の少人我が為には上行菩提薩埵なり。日の下の人の為には生財摩訶薩埵なり。亦一切有情の為には行く末三世常恒の大導師なり。是を汝に与へんとの給ふ」(新編一七〇八頁)という夢であった。
両親のこの霊夢は、その荘厳さといい、広大さといい、まさに法界自受用の仏の御出現を暗示する吉瑞であった。
釈尊の託胎の時、母摩耶夫人の霊夢について、大聖人が後に
「摩耶夫人は日をはらむとゆめにみて悉達太子をうませ給ふ。かるがゆへに仏のわらわなをば日種という」(新編八六二頁)
と仰せられていることからも、大聖人と釈尊との霊夢がよく似ていることが判る。
これに対して、真言宗の元祖善無畏三蔵の場合は日輪を射る夢であったといわれ、日本浄土宗開祖法然は母が剃刀を呑む夢を見たといわれる。大聖人はこれらの夢は、仏法の立場から見れば凶瑞であるといわれている。
また、大聖人御誕生の時の母君の霊夢について、
「又産生たまふべき夜の夢に、富士山の頂に登りて十方を見るに、明らかなる事掌の内を見るが如く三世明白なり。梵天・帝釈・四大天王等の諸天悉く来下して、本地自受用報身如来の垂迹上行菩薩の御身を凡夫地に謙下したまふ。御誕生は唯今なり」(新編八七八頁)
と述べられている。そして、この時、竜神王が一本の青蓮華を持ち来たると、この青蓮華の花が開き、そこから清水が湧き出したのである。そこで、この清水をもって産湯をつかわれ、余った清水を四方へ濯ぐと、あたり一面は金色に輝き、まわりの草や木も一斉に花が咲き菓がなったというのである。また多くの人達が共々に白い蓮華を手に捧げ、日に向かって、「今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 唯我一人 能為救護」(今この三界はみな是れ我が有なり その中の衆生は悉くこれ吾が子なり ただ我れ一人のみよく救護をなす)と唱え奉る夢を御覧になったという。
まことにもって末法の本仏の御誕生にふさわしい、清浄にして荘厳な霊夢であった。
また伝説によれば、宗祖御誕生のとき砂浜から清水が渾々と湧き出て、御誕生の数日前より、海上には忽然として青蓮華が生じ、あざやかな花を咲かせたといわれる。今も小湊の磯には「蓮華ヶ淵」の名称を留めている。
また、御誕生の日、庭の池に蓮華が開き、海中より五尺ほどもある巨鯛が飛び跳ねて御誕生を祝ったと伝えられている。現在でも「鯛の浦」には、巨大な鯛が生息しているが、本来深海に棲む鯛が、岸辺の浅海にいることは、今でも謎であり不思議な現象である。
さらに不思議なことは、生死の因縁ともいうべく、インドの釈尊が二月十五日に入滅し、日本の大聖人が二月の十六日に御誕生されたことである。こうした数々の不思議な因縁と現証は御本仏出現を賛嘆渇仰する大法界のあらわれと見ることができる。
末法の仏としての大聖人の御誕生に、山川草木十方法界の仏性が、ことごとく房州小湊の地に向かって、歓喜の瑞相を示したのである。
(三)小湊
御誕生の地について『新尼御前御返事』に
「かたうみ・いちかは・こみなとの磯」(新編七六五頁)
と示されるように、大聖人は安房国長狭郡東条の郷、小湊で誕生された。
小湊の地は眼前に太平洋を眺望し、背には幽邃な清澄山系をひかえた温暖にして風光明媚な所である。日本全体から見れば、弓状の日本列島の中央に位置し、しかも日本本土の東端にあり、従って最初に朝日が出ずる場所であった。まさに日本の柱として、一切衆生の闇を照らす聖者の誕生するにふさわしい地であった。
『安房史』によると、大聖人の生家は湊村小湊山の麓にあったといわれ、明応七年(一四九八年)八月二十五日の大地震と津波によって、小湊の周辺はほとんどが海に没したという。
また同史によれば現在の内浦(湾)も、「いちかは」という大きな村が明応の大地震で陥没して湾となったと伝えている。
このように、地形の変動によって、大聖人の生家も今は海中に没し去り、その聖跡は清らかな海水に守られて海底に静かに眠っている。
しかし現在の小湊も、なお往時のおもかげを残しており、岩畳と砂浜、そして澄み切った海水のコントラストは、まさに鯛(妙)の浦の名のごとく大自然の石庭であり、聖跡の地にふさわしい美しさを留めている。
(四)家系
大聖人の出生・族姓については、御書にみることができるが、御両親の姓名や兄弟の有無といった家系にかかわる史料は、極めて乏しい。ただ大聖人口伝の『産湯相承事』に、御父・三国の大夫の呼び名について
「東条の片海に三国大夫と云ふ者あり、是を夫と定めよ」(新編一七〇九頁)
とあり、この三国氏のいわれを『古事記』・『日本書紀』・『上宮記』などを見ると、第二十六代継体天皇は即位される以前越前(福井県)三国に住まわれ、御子の椀子皇子が三国氏の祖先とされている。
上古の伝記として、大聖人滅後二百年頃に書かれた『元祖化導記』(行学院日朝)には、
「遠州の人貫名五郎重実なり、平家の乱に安房の国に流されたり、然るに重実に二人の子有り(中略)次男は貫名次郎、重忠に五人の子有り、一は藤太、二は幼少にして死す。三は仲三郎、四は元祖大聖人なり、五は藤平云々」
とあり、また後に当地の地頭東条景信と領家の尼との土地争いに、大聖人が「重恩の人」として領家側に味方したことや、当時の古刹たる清澄寺に登山されたことなどから考えると、父の三国大夫重忠は本来の漁民ではなく、荘官階級の出身であったか、あるいは漁師のまとめ役か、行政官の地位にあったと推察できる。従って父重忠は何らかの理由によって漁師の身とはなっていても、相当の見識と教養を身につけていたことであろう。
しかし、『元祖化導記』は大聖人滅後二百年頃に著わされたものであり、信憑性はうすく、ここに記されている藤太、仲三郎、藤平についても定かではない。
御母梅菊女の家系については、同じく『産湯相承事』に
「悲母梅菊女は=童女の御名なり=平の畠山殿の一類にて御座すと云云」(新編一七〇九頁)
と記されている。
平の畠山氏とは、平安末期から鎌倉初期の豪族で桓武平氏の末孫である。
秩父氏の一族で秩父重弘の子重能が、武蔵国男衾郡畠山庄(埼玉県大里郡)の荘司となり、この時に畠山氏を名乗ったのが始まりとされている。重能の子重忠は、源頼朝の家来となって軍功を重ね武州の有力御家人となったが、元久二年(一二〇五年)重忠の子重保らの一族と共に北条時政に滅ぼされた。そして、この頃一族が落ちのびて、安房に居住したらしい。
また、聖滅四百五十年ごろに著された『本化別頭仏祖統紀』には、御母は清原氏の出身であるとしている。おそらく畠山氏の縁戚に清原氏なる人がいたためと考えられるが、定かではない。
(五)五濁の世
日蓮大聖人御誕生の貞応元年(一二二二年)は、釈尊滅後二千百七十一年、すなわち末法に入って百七十一年目にあたっていた。(註:末法元年は1052年)
釈尊は仏法の将来を『大集経』に
「我が滅後に於て初めの五百年の中は解脱堅固、次の五百年は禅定堅固已上千年、次の五百年は読誦多聞堅固、次の五百年は多造塔寺堅固已上二千年、次の五百年は我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」
と予言されている。
すなわち仏の滅後、はじめの千年間は釈尊の仏法によって人々が解脱し、禅定を得るゆえに正法時代といい、次の千年は仏経を読誦したり、法を聞いたり、教典が翻訳されたり、また多くの塔寺を造るという形式を重んずるゆえに像法時代という。そして最後の第五の五百歳、すなわち二千年以後は人々の機根も下劣となり闘諍の世となって、仏法が隠没するゆえに末法というのである。
この予言はまさに的中し、大聖人御誕生の時代は、日本のみならず世界の全土が五濁の闇に覆われ、闘諍による悲劇が展開されつつあった。
*ヨーロッパの戦乱
当時ヨーロッパにおいては、キリスト教徒が聖地エルサレムを回教徒より奪回し、あわせて勢力拡張を目的として、十字軍の遠征が行われた。その攻防は十一世紀末より十三世紀末まで二百年間にわたって続いたのであるが、とくに地中海沿岸地域における戦禍の中での略奪暴行は目に余るものがあった。二世紀にわたる戦乱の間には少年少女による「児童十字軍」が企てられたが、その多くは奴隷として売られるという悲惨な結果に終わった。
長期にわたる宗教戦争にまき込まれたヨーロッパは、人心も社会もすっかり荒廃し疲弊していた。
*アジアの侵略
一方アジアにおいては、世界史上最大の征服者であるジンギス汗が、一二〇六年には全蒙古を統一して帝国の可汗(皇帝)となり、ただちに四方に大規模な侵略を開始した。精強な蒙古の騎馬軍団は、またたくまに中央アジアを席巻し、半世紀の間に東方は中国の「金」を征して黄河以北の地を手中に収め、西は黒海沿岸のクリミヤからウクライナ地方に至る空前の大帝国が出現したのである。この蒙古軍の戦闘は熾烈を極め、死者数百万人に及んだ。
一二二七年ジンギス汗の死後も侵略の嵐は止まず、ポーランド、ハンガリー等の東ヨーロッパ諸国を鉄蹄下に踏みにじり、イランより地中海東岸トルコに至る広大な地域を手中に収めた。これに震撼した西ヨーロッパ諸国を代表し、一二四五年ローマ法王は、膝を屈して蒙古へ修好使節を送ったほどであった。さらに極東においては、五祖フビライ汗が安南及びチベットを属国とし、高麗をも降伏せしめた。一二七一年には国号を「元」と名づけ、一二七九年ついに南宋朝を滅亡せしめ、「元」による中国統一が完成した。
このように十三世紀の世界は侵略と殺戮の時代であった。ここにまさしく闘諍堅固の仏説が、世界的な現実として証明されたのである。
*源平の乱
こうした世界の情勢に比して日本はいかなる時代・世相だったであろうか。
平安末期、保元・平治の乱を通して、平氏は源氏を下し、さらにその武力をもって政治権力を握り、「平氏にあらずんば人にあらず」とまでいわれた平家全盛の時代であった。
しかし、平家独裁の強化にともない、院・公家・寺院等の反平氏運動が起こり、この機運に乗じて、源氏は治承四年(一一八〇年)以仁王を奉じて挙兵した。
「奢る平家は久しからず」の言葉どおり、平家は頼朝の挙兵により、わずか五年後の文治元年(一一八五年)壇の浦にあえなく滅亡したのである。
ここに源氏は武家としての全国的実権を握り、長年の宿願を果たしたのである。
*鎌倉幕府
源頼朝は、治承四年(一一八〇年)には、武士化した地方官人による行政の府である侍所を関東鎌倉に設置し、さらに元暦元年(一一八四年)には、公文所(のちの政所)、問注所を設置して、いち早く武家による行政機構の整備をはかった。
また、翌文治元年(一一八五年)には、義経と組んで頼朝追討の宣旨を出した朝廷に対し、義経等の追及を名目として、守護・地頭の設置を要求し、「日本国総追捕使」(総守護)の承認を得た。これによって源氏の政権の基礎は固められたが、さらに建久三年(一一九二年)、頼朝は後白河法皇の崩御によって、待望久しかった征夷大将軍に任ぜられ、ここに名実共に武家政権による鎌倉幕府が誕生した。
しかし、保元・平冶の乱より幕府開創までの三十余年は、血を血で洗う戦乱の歴史であり、悲惨な弱肉強食の様相を露呈したが、幕府開創以後もこれにおとらず、骨肉相打つ、冷酷無慚な歴史がつづられた。そして、争いのつど塗炭の苦しみをうけたのは常に民衆であり、民衆はただ耐え忍ぶ以外になす術がなかったのである。
さて、政治の実権を握った源氏も、わずか三代で跡絶え、政権は執権職の北条氏に移った。この時、事実上の最高権力者となったのは、時の執権北条義時であるが、この義時が目指したものは、頼朝によって設置された地頭の強化であった。そして次第に御家人による荘園の支配を強め、幕府の実勢力を拡大していった。このため、朝廷方が支配していた土地は、だんだんと幕府に奪われ、政治権力や経済的基盤を大きく削減されていったのである。
これは、皇室を中心とする貴族階級の人々にとって死活問題であった。なぜなら、生活を支えた最大の財源は、すべて皇室領の荘園群であったからである。
三代将軍実朝亡き後、後鳥羽上皇は幕府内の政争を契機として、今こそ朝廷の勢力を挽回せんと種々の方策をめぐらした。なかでも幕府の持つ地頭の任免権に対し、これを左右する院の権力を承認させようとしたが、上皇の期待に反し、義時はこれを手ひどくはねつけ、逆に弟の時房を兵一千と共に上洛させ、武装をもって拒否すると共に、再度にわたって、上皇の皇子の鎌倉将軍着任を強要したのである。
しかし上皇もこれには応ぜず、結局両者は、武力によって決着をつける以外に解決の道はなかった。
*承久の乱
ついに承久三年(一二二一年)五月十五日、朝廷側は北条義時(註:2022大河ドラマ・鎌倉殿の13人の主人公)追討の院宣を下した。ここに古代貴族政権より中世武士政権への変動の象徴的事件とも言うべき「承久の乱」が起こった。
しかしながら、総勢十九万という圧倒的に優位な鎌倉方の軍勢の前には、上皇軍はもはや敵ではなく、戦いはわずが一ヶ月をもってあっけなく幕府軍の勝利に帰した。
この戦いを伝える『承久記』には、京に乱入し、戦勝の勢に乗じた関東武士たちの掠奪・放火・殺戮・暴行は、さながら地獄の様相を呈したと記されている。
乱後義時は、後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇を佐渡に、土御門上皇を土佐に配流し、倒幕派の主な公家・武家は斬首の刑に処した。また、三千余ヵ所と言われる皇室領の荘園を没収し、御家人を新たに地頭に補任し、ここに幕府による全国支配が確立した。
この承久の乱は、民間の武士が天皇を破り、しかも三上皇をを流刑に処すという史上未曽有の大事件であり、その下剋上の混乱はそのまま、五濁爛漫の末法の様相を示すものであった。
そしてまた、この闘諍戦乱の時に呼応して、大聖人の御誕生の大事があったことは、まさしく修羅闘争の極まるところに御出現の時を感ぜられた、法界の一大事因縁というべきであろう。
(六)善日麿
善日麿と称されたこの聖児は、温暖平穏な安房小湊のほとりにあって、父母の深い慈愛を受けて健やかに成長されていった。三歳・四歳と長ずるに従い、父君からはいろいろのことを教えられた。母君もまた昔話や物語をもって、多くの教訓を幼い心に植えつけられた。
伝説では幼少の時より仏法に心を入れられ、村童と遊ぶにも無益の殺生を好まれず、思慮深く、覚えはよく、意志堅固にして、情緒きわめて細やかであったという。
また七・八歳の頃には父君から習字、読書の手ほどきを受け、同時に天性の慧眼は転変する世相への関心となっていった。
しかも海辺の漁師の子供であるから、波や潮風の自然を友とし、あふれんばかりの陽光の中で、元気な身体と大海のような壮大な気宇も養われた。
このころのことは詳かではないが、後年の御振舞と御書に表されていた品位と気性、すなわち高潔英邁にして、いかなる艱難をも乗り越えられる強い意志と身体、そして広い心と細やかな情愛は、長年の研学修行とともに、御幼少の成長期がいかに充実し円満なものであったかを物語っている。
御歳三歳の貞応三年(一二二四年)六月には、三上皇を配流せしめた北条義時が近習に殺されるという事件が起こり、その子泰時が執権を継いだ。
翌嘉禄元年(一二二五年)六月には、承久の乱の幕府方の軍師であった大江広元が死去、又、七月には同じく幕府方をまとめ尼将軍と呼ばれた北条政子が、十二月には北条時村(行念)が相次で死去した。又、同年の九月には京都上皇方の祈祷の上席を勤めた慈円僧正も没したのである。御歳四歳の時であった。
そして、このころ、季節はずれの大雪、洪水、隕石、などの転変地夭が続き、五月に幕府は鶴ケ岡八幡宮に千二百僧供養を命じて疾疫災早等の除厄を祈らせたのであった。
御歳が七・八歳と長ずるに及んでも世情の不安は止まず、高野、奈良の僧徒の帯仗が禁じられたり、安貞二年(一二二八年)七月には、大風雨により京都の鴨川が氾濫するなどの天災が続き、寛喜三年(一二三一年)、御歳十歳の春には、大飢饉が起こった。一方、このころ武家と領家との間に土地の所領問題などの係争が全国的に続出した。そのため幕府はついに貞永元年(一二三二年)五月、北条泰時を中心に『貞永式目』を制定するに至ったのである。
これは幕府の法治主義のもと、敬神崇仏、所領、罪科、決罰など、訴訟裁判に関する五十一ヵ条を制定し、武家法の確立を図るものであった。
このような世相の混乱と悲劇は、幼い善日麿の眼にどのように映じたであろう。感性豊かにして聡敏な善日麿の心は、これらの兇相の原因は何であるのかを幼な心におぼろげながら考えはじめていた。
後に
「予はかつしろしめされて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給へ。十二のとしより此の願を立つ」(新編一〇七七頁)
との仰せからも、幼少の時から近隣に知らない者がないほど「学文」に秀いでられたことと、十二歳で清澄寺に登るときには、すでに「日本第一の智者となし給へ」との大志を懐かれていたことがわかる。この大きな願望は幼少の頃から目にし、耳にしてきた人間の悲哀、社会の混乱を解決するためには、「日本第一の智者」とならねばならないことを強く感じていたからであった。そのためにも学問を究めなければならない。そしてそれが、家を離れて直接学問の師匠に従うという出家の道を選ばれるに至ったことは、当然の成りゆきであった。
*幼名について
なお大聖人の幼名について、一説には「薬王麿」と称する伝記もある。すなわち、大聖人滅後二百年頃の『元祖化導記』に「或る記に云く童体をば薬王丸と号す」と記している。次いで聖滅二三〇年頃に著された円明院日澄の『註画讃』には、「清澄山の寺に登り道善房に師事して薬王麿と号す」とあるが、それ以前の幼名にはふれていない。しかし、大石寺に秘蔵相伝されてきた大聖人御自身の口述による『産湯相承事』には明確に
「予が童名をば善日」(新編一七〇九頁)
と仰せられており、大石寺第十七世日精上人の『日蓮聖人年譜』にも
「薬王と申す御名は妙蓮(御母)の説に非ず亦未だ出処を見ざる故に依用せざるなり。」(富要五-七〇頁)
とあって、大石寺にあっては古来、当然のこととして大聖人の幼名を善日麿と称し奉っていたのである。
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掲載註:これを言わねばなるまい。
産湯相承事に、
「聖人重ねて曰ふ様は、日蓮が弟子檀那等悲母の物語と思ふべからず、即ち金言なり。其の故は予が修行は兼ねて母の霊夢にありけり」(1709)
とある。大聖人の死身弘法の御振る舞いは、御母君の「あなたはきっと素晴らしい人なのですよ」という訓育に端を発しているのですから。
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