!!!あとの祭りにならないために! 〜神社・神道〜  夏から秋にかけては、いわゆる祭りのシーズン。  京都の祇園祭、大阪の天神祭、東京の神田祭、青森のねぶた、高知のよさこい等々、日本各地で、祭りや縁日が催される。   !!祭礼参加で悪鬼に加勢!?    有名なものは夏に多いが、今や、のべつ幕なし、一年を通じてどこかで何かしらの祭りが催されている。公園やテーマパークで開催される桜祭やチューリップ祭など、宗教とは全く無関係で法義的に問題のないものがある一方、中世に伝染病を封ずるために行われるようになった祭礼や、神に戦勝祈願したのが由来の祭りも。  また、その土地その土地の農業や漁業、林業といった生活環境、風俗習慣が起源のものもある。こういった行事に人々の祈りが入り込むのは自然なことで、時代の移り変わりと共に、神社神道の祭礼と結びついたのだろう。  日蓮大聖人は、 「此の故に諸天妙法を聞くことを得ず。法味を嘗めざれば威光勢力有ること無く、四天王並びに眷属此の国を捨て、日本国守護の善神も捨離し已はんぬ」(守護国家論[144|http://honshubou.main.jp/gosho/0100.htm]頁) と、日本守護の諸天善神は元来、神社を住処とし、妙法の法味を得てその力を発揮するが、国土に謗法が充満すれば法味を味わえなくなり、諸天は神社を捨てて天上へと上ってしまう、と御指南されている。  そして空き家となった社に、代わりに悪鬼魔神が住み着くのである。  そんな場所へ詣でたり祭礼に関われば、謗法与同となり、災難と不幸に見舞われてしまう。   !!伝統と文化に置き換える無認識    祭りに関わる人々は言う。「地域の付き合いなので」「この伝統行事を絶やしてはならない」「地域のコミュニケーションに一役も二役も買っているんですよ」と。  いわば信仰心からではなく、祭りを歴史や伝統文化ととらえ、地域社会のために「よかれ」と思い、打ち込んでいたりもする。  「日頃のストレスも解消できる」「血が騒ぐ、大好きだ」という人も。確かに、大勢が集まることから生まれるパワーや華やかさには、日常にない特別な魅力があるだろう。  だがしかし、祭りに参加したり御輿を担いでも、諸天善神は何も喜ばない。   !!悪鬼魔神の片棒    それどころか、魔の神通力によって魅力を感じ、楽しい宴のひと時を過ごした後は、知ると知らざるとにかかわらず、悪鬼魔神の片棒を担いでしまったという業が、その人の命に刻まれる。喜ぶのは魔鬼だ。  とは言っても、地域に根付いた祭りから、深く関わってきた人たちに手を引かせることは至難の業だ。  いかに正論を挙げ理路整然と邪義を破ろうと、「判った、もう祭りはやめるよ」とは、ならないであろう。 大聖人は『諌暁八幡抄』に、 「法華経の第五に云はく「諸天、昼夜に常に法の為の故に、而も之を衛護す」文。経文の如くんば南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等昼夜に守護すべしと見えたり」(同[1543|http://honshubou.main.jp/gosho/1543.htm]頁)  と仰せられ、また『御義口伝』には、 「末法に於て法華を行ずる者をば諸天守護之有るべし。常為法故の法とは南無妙法蓮華経是なり」(同[1763|http://honshubou.main.jp/gosho/1763.htm]頁)  と示されている。妙法を受持信行する者に、諸天の加護が降り注ぐとの仰せである。  この筋道をはっきりと示すのが折伏となる。   !!身口意の謗法    総本山第二十六世日寛上人は『如説修行抄肇記』に、 「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法になるなり。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。手に珠数を持ちて本尊に向かわずんば、身が謗法に同ずるなり」(御書文段[608|http://honshubou.main.jp/gazo/gazo.php?sho=mndn&p=0608]頁) と御教示である。  三世に亘る命の問題である。手を拱(こまね)いて傍観する場合ではない。  基本はもちろん、縁のある近隣の折伏。さらに、地域の行事が宗教と無関係になるよう地道に訴えるなど、我々にできることは、ある。 ---- 大白法H290716より転載 {{category 破折,神社,神道,し}}