!!!学会の活動に功徳は無かった! !!!スキルス癌すら克服した正法の功力  総本山塔中・理境坊所属妙観講 N嶋T人さん(東京都在住) !!悩みが解決しなかった学会時代 !!婦人部幹部の叔母も失望して離反  私は、昭和三十九年の暮れ、まだ十歳だった時に、学会員たった叔母(おば)に勧(すす)められて母親と共に創価学会を通じて日蓮正宗に入信しました。  叔母は、婦人部の大幹部をしていました。  当時の創価学会の組織は、いわゆる[[タテ線]]といって、折伏系統で構成されており、私は少年部に在籍して、月に一回、会合に参加するために世田谷区から荒川区の新三河島まで通っていました。  会合の時に先輩から、「百万遍のお題目を唱えると、全ての願いが叶う」と言われて、子供ながらに一生懸命にお題目を唱えていた記憶があります。  私が大学生になって学生部に在籍した頃には、組織の形態がタテ線から地区制に変わり、同じ地域に住んでいる学会員と一緒に会合に参加したり、活動するようになりました。  その頃の学会では、会員同士の悪口やウワサ話をよく耳にしました。その内容は、「あの家は車を買った」とか「あそこは家を建てた」とか「あの家は貧乏だ」とか、「あの家は病人がいる」等、同じ学会員なのに、嫉妬(しっと)や人をさげすむことが日常茶飯事だったのです。  また、学会員の中には商売のために組織を利用して金儲けをしようとする人達も多くいました。同志であることを利用して詐欺(さぎ)をたくらむ学会員もいて、私の父親も危うく不動産詐欺に遭(あ)いそうになったことがあります。  私は、そうした学会内の風潮に、 「共に幸せになるために信仰しているはずなのに、どうして陰で悪口を言ったり、商売に利用しようとするのだろう」 と疑問に思っておりました。  また、私が大学生の時、学内に、宗教色を一切出さず創価学会の名を隠したサークルがありました。 そのサークルは、表向きは歌を歌ったりするのが主な活動なのですが、サークルで仲良くなって最終的に創価学会に入会させる、というのが実際の目的でした。  私もそのサークルに入ったのですが、ひとたび選挙になると、公明党の応援のためのさまざまな活動に駆り出されることになりました。  サークルの先輩からは、 「選挙活動は功徳があるがら、授業を受けている場合ではない。授業に出ないで選挙の応援をするように」 と言われて、選挙応援の手伝いを強要されました。  私はそのような発言や行動に疑問を持ち、次第に創価学会に対して不信感がつのるようになったのです。  私の家族は、当時、大きな問題をかかえておりました。酒乱の祖父と厳格な祖母と同居していた私達は、精神的に大変苦労をしていたのです。 酒乱の祖父は、包丁を持って母を追い掛けたこともありました。そんな母は、救いを求めて学会活動にのめり込んでいったのですが、悩みが解決することはありませんでした。  そればかりか、母の頼みの綱とも言つべき父は、祖父よりお早く五十八歳の若さで亡くなってしまいました。  その父の死から三年後に祖父が亡くなったのですが、その際、父の弟妹の間で土地の相続権をめぐる争い事が起こり、訴訟問題にまでなりました。  このように、私達家族や親族は、絶えず悩み事が尽きない状況でした。  そうした中で、婦人部の大幹部をしていた叔母も、創価学会に対して不信感を抱くようになっていきました。  叔母は、幹部が財務で集金したお金を搾取(さくしゅ)していたり、また、幹部が集まるような会合で婦入部幹部らが衣装を競い合い、そこにかかる洋服代が大変だったりと、とにかく組織の中はドロドロしていることに嫌気がさして、ついに一家で創価学会を辞めてしまいました。  昭和五十年代の初め頃、ちょうど、創価学会による「[[第一次教義逸脱問題]]」が持ち上がっている頃だったと思います。 !!この目で確認した学会のウソ !!法華講との出会いで好転へ    熱心に活動をしている母や叔母も、全く幸せにはなれなかった――そんな中で、私も、創価学会には深く関わりたくないと思うようになっていきました。  そのような時に、地域の学会員が私に、「聖教新聞の購読部数が多いほど、功徳がある」と、部数増加を勧めてきたので、 「功徳をお金で買うような宗教はおかしい!」 と反論して口論になったこともありました。  しかし、創価学会の組織ややり方には不満があったものの、日蓮正宗の仏法に対しては、間違っているとは思えませんでした。  やがて、平成になって、創価学会は正面きって宗門に反発しだしました。その当初、学会では「登山禁止令」が出されていました。しかし、私は、どうしても総本山に参詣したいとの思いがつのり、最寄りの正宗寺院にお願いして添書(てんしよ)をいただき、家族で登山しました。  学会の指導では、「大石寺は、ペンペン草が生えて荒れ寺になっている」とかノラ犬が歩き回っている」とか「桜の木を全部切ってしまった」などと聞かされていましたが、大石寺に参詣してみると、学会で言っていることとは全く違いました。荒れ寺どころか、大石寺は清浄な空気に包まれ、その荘厳さに感激するとともに、心が洗われるような思いでした。  そして、平成三年十一月に創価学会は宗門から破門されました。  その後、平成六年九月、どうしたらよいのか分からずにいた私達家族に救いの手を差し伸べてくれたのが、理境坊妙観講の原進さん(故人)でした。  私達家族は、原さんから、創価学会の誤りや、日蓮正宗に戻って信仰する大切さを丁寧(ていねい)に教えていただき、学会を辞めて日蓮正宗に帰伏し、法華講員として信心していくことを即決したのです。  法華講員として信仰をするようになってからは、それまで得られなかった功徳の実証を、どんどん得られるようになりました。  私は仕事で車に乗ることが多く、帰伏前はどんなに気をつけていても立て続けに車の事故を起こしていたのですが、日蓮正宗に帰伏してからは全く事故を起こさなくなりました。これもひとえに御本尊様の御加護だと思いました。このような体験は、学会時代には一度も無く、初めてでした。  地域の学会員に脱会を告知すると、家に何度も学会員が押し掛けて来て、学会に戻るようにと説得されましたが、戻る気など微塵(みじん)もありませんでした。  また、高齢の母が一人で在宅の時に数人の学会男子部が押し掛けて来て、開けた玄関のドアを閉められないように押さえられたり、ポストの中にドレッシングをかけられたことも何度もありました。それでも学会員を折伏をしていくと、「学会員だけは折伏しないでほしい」と懇願(こんがん)してくるありさまで、本当に学会員の言動には呆(あき)れ返るばかりでした。 !!20年前の余命宣告から今日に! !!スキルス性胃癌から奇跡の生還    さて、私は、子供の頃から学会組織に縛(しば)られていたことによるトラウマから、法華講員となってからも、しばらくは家で勤行するのが精いっぱいで、講中の皆さんと共に活動するというようなことは避けておりました。  そのような状態の中、平成十四年、四十九歳の時にスキルス性の胃癌(がん)を発症し、医師からは、「余命はわずか」と宣告されたのです。  私は、本当にショックで愕然(がくぜん)としましたが、このまま命を落とすことになれば、学会員から「脱会したせいだ」と言われるのは目に見えています。  そこで、「御本尊様を信じていけば絶対に大丈夫だ」と気持ちを切り替え、功徳を積ませていただくために、入院するまでの間に精いっぱいの折伏と、一日六時間の唱題をさせていただきました。  手術は三度に及び、お腹の中がどうなってしまうのかと思われる程の大手術になりましたが、御本尊様の御加護のもと、半年間の入院でようやく完冶にこぎ着けました。  そもそも、スキルス性の癌は通常の癌よりも生存率がかなり低く、油断ができない状況でしたが、医師が「通常ではありえない」と驚くほどに体調が良く、まさに御本尊様の功徳で命を繋(つな)ぐ事ができたのです。周囲からは大病した人には思えない、とよく言われます。  胃が無いのに食欲があり、体重も現状維持を保っており、風邪もほとんどひかなくなりました。  この状態で二十年間無事で生きて来られたことを、日々御本尊様に感謝申し上げております。  一方、私と同時期に、癌で同じ病室に入院した学会員は、抗癌剤治療を勧める医師の説得には応じないで、「池田先生が付いているから大丈夫」などと言っておりましたが、その後間もなく、亡くなってしまいました。  池田大作と創価学会を盲信したが故に、正しい判断ができなかったのだと思います。  二十八年前に原進さんに出会って日蓮正宗に帰伏していなかったら、私は間違いなく命を失っていたはずです。  御本尊様に救っていただいたこの命を使って、今後も精いっばい御奉公させていただきたいと思っております。 (慧妙R04.07.16号より) ---- 何となくスキルスをステルスと読んでいて、ああ、発見しづらくて見つかった時には末期という悩ましい癌なのかなと即断してたのですが、調べてみるとスキルス(scirrhous)癌というのは難治性で生存率が低い大変厄介な癌であることが分かります。 これは信仰の体験談として大変貴重なものであると感心しました。 {{category 体験,スキルス癌}}