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下附の変更点

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!!!下附
!!概要
下附(かふ)とは下付の意味で日蓮正宗においては主に御本尊を家庭にお貸し下げ頂くことを意味する。
御本尊は御本仏・日蓮大聖人の御魂魄であり、これを書写出来るのは御法主上人だけである。
下付とは広辞苑に
 か‐ふ【下付】
 役所から人民へさげわたすこと。「金一封を―する」
等と説明されるが、御本尊をお下げ渡し頂くということは信仰的尊厳を伴うものであり、決して軽々に考えてはいけないことである。

59世日亨上人は
 曼荼羅書写本尊授与の事は、宗門第一尊厳の化儀なり、仮令意に妙法を信じ
 口に題目を唱へ身に殊勝の行ありとも、当流にては対境の本尊を授与せられ示
 書中の人とならざれば、信心決定即身成仏と云うこと能はざるなり、故に宗祖は
 濫に曼荼羅を授与し給はず、開山は曼荼羅転授に就いても之を鄭重になし給ひ、
 尊師は宗門未有の弘通者なれども自ら曼荼羅を書写せず、然るに余門流の僧侶
 不相伝の侭猥りに曼荼羅を書き散して、僭越の逆罪とも思はざるのみならず、
 雑乱滅裂全き型式をだに得たるものなし、無法無慙の甚しきもの八大地獄は彼
 等の為に門を開けり、慎まざるベけんや

(御本尊を書写し授与することは日蓮正宗のもっとも大事な事柄である。例えお題目が大事で、唱題もし、人に説法をする人であっても、日蓮正宗では信心の的となる御本尊を授与され(授与之某〜等と書き添えられ)なければ、信心がぐらつかず、成仏間違いなし、とは言えない。だから、日蓮大聖人は簡単には御本尊を書写して授与されることはありませんでした。日興上人も御本尊の授与には慎重を期せられた。(要法寺・以前は日蓮正宗の一部だった)日尊師は京に布教した功労者だったが、大石寺法主だけが本尊書写をすることが出来るのだと弟子に示して決して自ら曼荼羅を書かなかった。
ところがどうだろう、日蓮正宗以外の日蓮門下はそうした御本尊に対する尊厳を知らず、勝手に曼荼羅を書き散らして、それがトンデモない出しゃばりな行為であるとも思わず、しかもその曼荼羅たるや曼荼羅の意義内容も心得ずメチャクチャな書き方で、罰当たりこの上ないことである。すべての地獄は彼らのために口を開けて待っている。だから些かも間違いがないようにしなければならない。)
――と、化儀抄註解に述べられている。

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