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迦留陀夷の最期の変更点

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迦留陀夷の最期(かるだいのさいご)

上野殿御返事1122【迦留陀夷が馬の糞にうづまれし】

経律異相一五(七)‐縮蔵雨帙三(二〇)に云く、「後に於て機上に在りて織る。遇々賊主の年少端正なるを見婦便ち婢を喚びて.之に語りて来らしむ。共に相娯楽す、時に迦留陀夷其の舎に往いて食す。婆獄門婦の為めに婬欲の過を説き破戒の罪を訶す。婦疑を生じ此事を知る故或は人に向て説くを恐れ即ち方便を作し疾に託して之を請す。迦留陀夷往いて為めに法を説きて共に相留連し乃ち日没時に至る。迦留陀夷起て糞聚に到る。賊主利刀を以て其頭を断ち糞中に埋著す。乃至佛言く、迦留陀夷已に涅槃に入ると。夜過晨朝、佛衆僧と舎衛城に入り糞聚所に到る。佛神力の故に死尸踊出虚空の中に在り、諸比丘取て床上に着く、之を持して城を出で、身を焼き起塔供養す」ピタカ19-175

写実的な描写で驚きますね。

私的に訳してみますと

 その婆羅門の夫人が後で機織(はたお)りをしていた所、たまたま賊主(チンピラ?)の若くてイケメンなのを見て、その夫人は使いを使わせて呼び寄せ一緒に遊びました。
時に仏弟子の迦留陀夷さんがご飯を頂きにその家に来ました。そして(食事のお礼に?)奥さん、淫欲は破戒なんですよ、という法門を説きました。
これを聞いた夫人は、もしやこの人は私がチンピラの青年といちゃついていたのを知っているんじゃないかしら、もしかしてそれを他の人に言わないかしら、と恐れおののきました。
 そこで咄嗟に「もう少しここにいらして下さい」と迦留陀夷さんは更に法門をせがみましたところ、時間が経って日暮れ時になってしまいました。
迦留陀夷さんはもう帰らなきゃと家を辞して帰途、肥だめを通りかかりました。
 すると(隠れていた?)チンピラ青年が後ろから刀で斬りかかり、迦留陀夷さんの首は便所に投げられました。
 この時、遠くにいたお釈迦様はハッとして、今、迦留陀夷が死んだ、と言われました。
 その夜が明け、朝になってお釈迦様はお弟子方と舎衛城に入り肥だめに行きました。お釈迦様は神通力を発揮すると、肥だめから迦留陀夷さんの首が躍り出て宙に浮きました。みんなはそれを取って地面に置きますと、これを包んで城から出て、火葬にして塔を建てました。
てな感じでしょうか。



迦留陀夷さんは
迦留陀夷等(かるだい)。その身極めて黒くして能く輝く所より黒光・黒耀・大麁黒等と訳す。仏に投じて阿羅漢を得。曾て夜乞食し妊婦を悶絶堕胎せしむ。これ其の婦鬼来れりと誤解したるによる。かくて羅漢の身となって後、舎衛国の婆羅門の婦の為に殺されて馬糞の中に埋めらるるという。
祈祷抄(ピタカ10−344)

と説明されていますように、

釈尊の出家前の家来で、その身が極めて黒く、夜に托鉢(というのも違和感があるけれども)に訪ねた家で暗闇に色黒の怪人が現れた、とビックリしてその家の妊婦が流産してしまったという前歴があったようです。
このように破戒の言行が多かったので、種々の戒律が制定される因縁を作ったりしたが仏弟子中において在俗に喜ばれる者の第1と称されたということです。
しかしこのような惨い最期を迎えたということは「自業自得果の辺は救い難し」報恩抄1030ということでしょう。
ここに挙げてませんが、「乃至仏言く、此の過皆非時聚落に入るに由る」この後お釈迦様は「そしてお釈迦様はこの悲しい顛末は偏に時ならぬ時に至るまで村にいたからだ」と言われました、とあります。
ここに挙げてませんが、「乃至仏言く、此の過皆非時聚落に入るに由る」この後お釈迦様は「この悲しい顛末は偏に時ならぬ時に至るまで村にいたからだ」と言われました、とあります。
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[2010/12/10,14:20:07] 
見つかってよかった。以前クラッシュしたノートPCに入っていた文書で、絶望視していた
再度書き直そうとすら思ってたのだが、今日自分の掲示板に掲げてあったのを発見した。
{{category 説話,か}}