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楽ができれば幸せか?(島田靖道御尊師)の変更点

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!!■話をしても断られるからムダなことはしたくない。

■話をしても断られるからムダなことはしたくない。
と魔に負けてしまうことがあったり、
「勤行はしているし、人のことを思いやるよりも自分のことで精一杯だから」
と自分本位の信心にあぐらをかいてしまったりします。
 これは折伏する意欲よりも、無意識のうちに楽をして生きていきたい、信心に束縛されたくない、という気持ちに流されているからです。

!!■楽ができれば人は幸せか?
■楽ができれば人は幸せか?
 では極端な話かも知れませんが、楽ができれば人は幸せになるのでしょうか?
 例えば、「南無阿弥陀仏」と称える念仏の教えを信仰する人が「極楽浄土」を求めるあまり、現実に直面している様々な問題から逃げる癖がつき、その結果、自らの命を絶つ人もいます。
 この極楽浄土とは、世自在王如来という仏のもとで修行していた法蔵比丘が立てた四十八の誓願を成就し、阿弥陀仏として御座す浄土のことで、私たちが身を置く娑婆世界より西方十万億の仏土を過ぎたところにあるといわれています。この所は一切の苦患を離れ、すべてが円満に具足して、ただ数多くの安楽だけがある世界と説明されているために、念仏の教えを信仰する人は、この浄土に往生することを理想としているのです。
 しかもこの所に赴くには四十八願のなかの「念仏往生願」(第十八願)といって「十声の念仏」をすること、つまり十回念仏することで、誰でも往生ができると説かれていますが、これだけの修行ならばとても楽な話です。
 しかし大聖人は、
「法蔵比丘等の諸菩薩四十八同等を発こして、凡夫を九品の浄土へ来迎せんと説く事は、且く法華経已前のやすめ言なり(中略)実とおもふことなかれ(下山御消息一一五四)
と仰せになり、法蔵比丘の四十八願は法華経が説かれる以前の権教方便の説に過ぎないと説かれています。
 故に極楽浄土とは誰が求めても探しても行くことのできない架空の場所と言えるのです。楽ができれば人は幸せになるのかということですが、仕事の第一線で苦労してこられた方達が定年まで勤めた後に、それまでの経験を活かして再就職をする人達がたくさんいます。ある程度、お金も時間も余裕が出てきたのに、あえて苦労する道を選ぶのはなぜでしょうか?
 「まだまだ元気だし、遊んでいてはもったいないから」
 「孫へ小遣いをやるために」
 「自分が必要とされているから」
などの声が聞こえてきますが、人は苦労がないと生きてはいけないといわれています。
 と言いますのも私たちが本当に欲していることは生きていることの「充実感」と「感動」を得ていくことだからです。
 そのためには、自ら苦労することが必要とされるのです。
 勝敗や記録を争うスポーツ選手は、毎日、目標を達成するための努力と苦労をしています。
 目標を達成したら、それでおしまいではなく、すぐに次の目標を掲げて努力と苦労を惜しみません。
 私たちが行動するときも、目標を立てて結果に結びつくための努力をします。人生において目標や夢がないと面白くありません。何かにチャレンジしているとき、人は生き生きとします。
 反対に、すべてが満たされた状態となり、その時には満足を感じても、それにより向上心を止めてしまえば張り合いを失い、最悪な場合には生きる意欲を失う状態となりかねません。
 御法主上人猊下は私たちに、
 「来たるべき平成二十七年・第二祖日興上人御生誕七七〇年の佳節までには法華講員五十%増を達成し、更に平成三十三年・日蓮大聖人御聖誕八百年の大佳節までには法華講員八十万人体勢の構築を」(取意)
との御命題を与えて下さることは、大聖人の御遺命である広宣流布という大目的を見据えての仏道修行の機会を与えて下さっているのです。
 このことは大聖人が、
「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」
   (持妙法華問答抄・御書三○○)
 と仰せであることと併せて拝する時に、大聖人の仏子である私たちは、妙法弘通を生きがいとしていく生き方こそが、功徳善根を積むとともに、最高の人生となることを示されているのだと思います。
島田靖道師法話抄録(妙教平成26年1月号)
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