!!!寄稿文「強盛な祈り」      得妙寺住職 石田御尊師  「なづきをわり、みをせめていのりてみ侯はん。」 (『大尼御前御返事』御書一四九七頁)  これは、大聖人が信徒からの願いによって御祈念をしてくださる時の、大聖人御自身の祈りについて述べられた御文です。  「なづきをわり」というのは、心を砕いて、ということです。 「心を揉み砕き、身を責めて、あなたのことを祈ってみましょう」 と仰せられているのです。 !! 強盛な祈りとは  御本仏である大聖人ですら、 「何としてもこの願いを叶えたまえ」と、「なづきをわり、みをせめ」るような思いで御祈念されているのです。ましてや、我々凡夫がいろいろなことを御祈念するのに、そこまで祈らなければ、祈りが通じないのは当然の話だといえましょう。  たとえば、同じ題目を唱えるにしても、ただ口に題目を唱えながら、心の中では 「今日は何を食べようかな」 「明日はどこに遊びに行こうかな」 などということばかり考えて唱題しているのと、自分自身の現在の悩み、苦しみを御本尊に解決していただこうと思って、本当に心を砕いて御祈念しているのとでは、やはり御本尊に対する信の強さが違います。 !! 時間も大切 また、 「みをせめていのりてみ候はん。」 ということですから、唱題の長さも大事です。 「自分は五分間、身を責めて祈りました」 などということでは、全然身を責めていることにならないでしょう。身を責めて祈る、というのですから、時間の許すかぎり、なるべくたくさん唱題をすべきであります。たとえば自分自身の1日の中から時間を見つけ出せば、多くの人が二時間、三時間くらいまで、唱題できるのではないでしょうか。  よく、 「生活ができないくらい経済的にギリギリのところまで追い込まれて、困っているけれども、その悩みが解決しない」 とか、あるいは 「持病があって、そのことを御祈念しているのだけれども、叶わない」 と言ってくる人に、 「では、どのぐらい唱題していますか」 と聞くと、 「十分くらい」 などという答えが返ってきたりします。  それでは願いも叶うはずがありません。御本仏であられる日蓮大聖人ですら、信徒の願いを受けて、 「身を責めて祈ってみましょう」 と言われ、御祈念してくださるわけです。  ましてや我々凡夫が、自分。自身の重い病気だとか、経済的に破綻しそうな問題を抱えている時に 「十分間、御祈念しました」 などというのではお話になりません。本当には御本尊を信じていないから、その程度しか唱題できないのです。  本心からご本尊を信じ奉る信心に立つならば、身を責めて真剣に祈らなければダメです。  身を責めて祈るということは、時間の許すかぎり、空いている時間を全て見つけ出して唱題する、ということです。 !! 御尊師の体験  私も昔、 「毎日二時間、三時間と唱題するのは大変だな」 と思ったものです。しかしある時、自分の大事にしている祖母が危篤になり、その命を助けようとして、五時間、真剣に御本尊に御祈念申し上げ、祖母を助けていただきました。その後、幾度となく医者から 「寿命だから、あきらめてください」 と言われる状態になりましたがそのつど御本尊に祖母の延命を祈り、気がついてみれば、毎日三時間、四時間、そして七時間、題目を唱えることができました。  そして、結果的には二十回もの危篤状態を克服し、二年半も延命させていただけたのです。これには医師が驚いてしまい、祖母の往診に米る時には、医師が御本尊の御前に座って手を合わせていったほどです。 !! 結論  やはり自分の本当に大切な祈りを叶えようというのであれば、「心を砕き、身を責めて祈る」自分のムダな時間は全て省いて、本当に一念を込めて限界まで唱題して祈りきるべきであり、そのような姿勢であってこそ、自らの悩みを御本尊にすがって祈っているといえるのではないでしょうか。  当の本人が一日数分しかお願いしていないものを、仏様が 「それはかわいそうだから、どんなことをしても救ってあげなければならない」 と感ぜられ、救ってくださる義理はありません。やはり、自らが本当に心を砕き身を責めて、真剣に御本尊に祈るからこそ、その健気な信心に応じて 仏天が願いを叶えてくださるのであります。  強盛な祈りというのは ここで大聖人が御示しくださっているような唱題をいうのであります。             (遠霑寺寺報より転載) ---- {{category 法話,ご}}