秋の気配漂う総本山大石寺へ、大阪地方部の皆様、異体同心の支部総登山、誠におめでとうございます。  信心強盛な皆様方を前にして、拙い私の体験をお話し申し上げるのは恐縮に存じております。お聞き苦しい点があるとは思いますがよろしくお願い申し上げます。  皆様もすでに御承知のとおり、本門戒壇の大御本尊様おわしますこの上野の地は、開創の昔、[[日興上人]]様の御決断と信心厚き大檀那[[南条時光]]様の外護により、多宝富士大日蓮華山大石寺として[[一閻浮提]]最高の[[霊山]]となったのであります。この地に先祖代々住み、御本尊様の御慈悲に浴し、微力ながらも信心を続けられて参りましたのは、代々の御法主上人猊下のたゆみない御指南があったればこそと感謝申し上げるばかりでございます。  私は、大石寺[[塔中]]了性坊の檀家に生まれ、信心深かった先祖の名にちなんで命名され育ちました。戦前へ戦中のこと、日蓮正宗の法門に関する書籍は、憲兵の目を恐れ人目のつかない所に納められ、たびたび開かれた本山の会議から帰宅した祖父が、 「お寺を護るため軍用機を寄付することとなった」 との話を、子供心に心配しながら聞いておりました。  厳しく信心指導をされたことはありませんが、御宝前のお水とご飯のお供え、しきみの水の取り替えは、小学校に入学した子供の役目で、鈴を打ち三唱するのは毎朝のことでした。自我が強く怒りっぽい性格の私は、祖父に 「お題目を三遍心で唱えてからロを開きなさい」 と言われておりましたので、大事なことにぶつかると、子供心に唱題して乗り越えて来たと思います。  受持の先生に、家に神棚のある人は手を挙げなさいと言われましたが、手を挙げずにおりますと 「村長さんの家でそんなことはない」 とただされ、帰宅して 「家に神棚がどうしてないの」 と泣きますと、祖母は私を御本尊様の前に座らせ 「ここに天照大神と名前が記されているのだから手を挙げて良いのだよ」 と言ってくれました。  父は中国に軍の慰問に行き等のお役に立つのだと、漢口と新陽で事業を始めました。出発前にはお目通りを申し上げ、御開扉をお願いし無事を祈り、帰国すればまず御開扉をお願いし感謝する生活でした。  村長の祖父は、本山[[二大行事|お虫払い]]には、公務は助役さんに任せ総代の役目を最優先いたしておりました。激動の時代は本当にいろいろなことがありましたが、国家権力から総本山を護るため、お寺第一の気持ちで暮らしておりました。  主人との結婚の折りも水谷日昇上人が心より祝福してくださり、あまりのお喜びに不思議に思うほどでしたが、今になって御心の深さを汲み取ることができて、有り難く思っております。  狩宿に嫁ぎ長男が生まれましたのが、立宗七百年の佳節の年でした。全国のご信徒をお迎えするために、家にある何十組もの寝具を百貫坊まで馬車で運び、家の者の一人はお手伝いに通いました。御会式、[[御虫払い]]の法要の折々にも、それぞれの境遇に合わせ、檀家はお寺へ薪を運び、畑でとれた野菜を持ち寄りました。生活にゆとりができると、敷き布団一枚、掛け布団一枚と、お寺へ用立てる布団の増えるのを喜びとしておりました。  毎年正月四日は、大石寺より猊下様が総代の家にお出でになる日です。当時は、創価学会の登山も大がかりに行なわれており、猊下様は、御法務御繁多になられ申し訳ないので、各家にはお代理様にお願いし、総代が我が家に集まり猊下様をお迎え申し上げました。  当時富士宮市長をしていた総代の一人が 「猊下、巷では大石寺は学会に軒を貸して母屋を取られるのではないかと心配する声があります。お寺ではいかがお考えですか」 と申し上げると、日淳上人猊下は一笑に付されて 「日蓮正宗は、宗門と法華講と学会の三本の柱がしっかり支えることが大切です。折伏、教学、登山会が盛んに行なわれている学会ではあるが、根本のところが今一つ、いくら言っても分からないのだよ。血脈がないと法門の根本が理解できないのだよ」 と仰せられました。学会の勢いに圧倒され、信心修行もままならぬ旧信徒として、無力感さえ持っていた私は、 「そうだ法華講がもっとしっかりして、宗門をお護りせねばならぬ」 と、自負心が湧いてくるのを感じました。  狩宿の義父は、法華講連合会を結成した平沢委員長のもと、東海地方部長として働き、私を支部婦人部長として法華講活動に引っ張り出してくださいました。その義父が、しみじみ述懐していたことがございます。  知力、財力、地位と全て満たされ、近代的文化人として理想主義を拠り所にし、信仰心は今一歩の状態の時、堀日亨上人様より 「貴男は知らず知らず笑いながら川に流されて行きますよ」 と、御注意を受けたといいます。自信に満ちていた義父は、深いお言葉を受け止められず、自分の信念に基づいてやれば良い、世のため、人のために尽くし、勤勉を尊び、まさに謹厳実直な人生を生きぬきました。  ところが世法上、何の悪因も作っていないにも関わらず、先祖伝来の土地は軍の演習場として取り上げられ、戦後は農地解放によって、井出家の歴史の中で最低の経済生活を強いられるようになりました。かような時代の当主となったことは、御本尊様の御慈悲によって守られてきた我が家であったことを、知らず知らず忘れていた結果であると、義父は思っていました。  そうした義父の心を汲み取り、主人も私も我が家に残された信心の歴史を振り返り、御先祖様の入信なされた原点に立ち返って、御本尊様根本の生活をしていきたいと思い、今日まで生活してきました。  子育てについても、悩めるときは唱題し、親の我を出さぬよう努めました。子僕の結婚に関しても、信心を根本といたしました。長男の場合は、お嫁さんに 「狩宿の家はお寺第一の家です。貴女もそのようにやってください」 と、御授戒を受けてもらいました。私自身の心構えとして、本人同士の気持ちで結ばれても、仏様に祈って迎えた嫁であるから、御本尊様からいただいたお嫁さんとして大事にしようと思いました。次男の場合も、日蓮正宗に宗旨替えすることが、養子縁組の条件でした。長女は恋愛結婚でしたが、日蓮正宗の信心を続けること、式は正宗寺院で行なうことが、親としての私共の条件で、それができなければ親子の縁を切ると言い切りました。先方も素直に受け入れてくださり、有り難いと思っております。三男については、大石寺を地元で守ることを第一といたしました。  主人が、義父の代理として本山[[総代]]を代行させていただいた時は、学会が宗門に対し、学会員の登山を中止させるという暴挙に出た時期でございました。[[日達上人]]にお目通りして帰宅した主人は、猊下は 「日蓮正宗以外の教えが弘まったとしても広宣流布とはいえない。私はたとえ塩をなめても日蓮正宗を守りぬく」 と、仰せられたと話し、お山に何事かあった時は、家の物を全て失ってもお護り抜きたいと、涙ながらに決意しておりました。私も心から主人を支えたいと思いました。  我が家の入信は定かではございませんが、御開山日興上人の時代ではないかと思っております。記録には、主人が給本山開創七百年の折、奉納させていただきました日興上人御本尊一幅、御消息文一幅がありました。現在、家にお守り致しております御本尊様の一番古い御本尊様は、日有上人授与です。地方武士だった井出右京亮の時代には、客殿屋根葺き賛え御供養に際しての、十三世日院上人御消息文を頂いております。  代々大石寺の総代を務めさせていただき、猫沢法発の折も、江戸に於ける宗教裁判で金品を使い果たし、本人は狩宿村を所払いとなり、柚野村・清家にお預けの身となりました。  かように先祖の積まれました功徳の上に、現在の私共の生活があると感じております。当家の長い歴史の中で、信徒としての信仰の姿はどうあるべきか、御本尊様の御心に叶う信心とは何か、ということを家の興亡の姿で教えていただけるのは、有り難いことだと思っております。  古い歴史を持った私共根檀家は、良いことも悪かったことも伝えて行かなければならない使命があると思っています。かつて、法華講連合会で法華講史を作成するので史料を出してくださいと言われ、調べておりましたところ、一つの事柄を見つけました。  本山大事と狭い視野で信心を考えていた本山塔中の檀家は、広宣流布達成のため、東京に出て折伏の先陣に立たれた新しい御法主様に対し、違背した行動に出たことがありました。 「御法主様として大切な丑寅の勤行を[[御隠尊]]猊下にまかせ、大石寺の金品を使い本山を留守にすることは、御法主様としていかがなものか」 と、塔中の講頭連名で御批判申し上げた文書があったのです。  そしてその後の名前を連ねた家々の状態を調べたところ、驚くべき[[現証]]がありました。妻が死亡し何度も再婚するが子供に恵まれない。生まれた子供も育たない。病弱な子供で苦労する等々、家の存続に関することなのです。御先師上人に心からお仕え申し上げ、お寺を[[外護]]することには尽くしたが、御当代御法主上人に違背することがこのよぅな結果として現れたのです。それぞれ立派な人格の人びとではありますが、仏様の御境渡からみたら、狭い[[六道輪廻]]の凡夫の信心の限界を見た気がしました。  信心の根本は、戒壇の大御本尊様と、現御法主上人に[[信伏随従]]以外にない、信徒は素直な気持ちで、御法主上人御教導のままに信心修行することが大切であると改めて悟りました。  当家に見えられた方々にも、折に触れこのことをお話し申し上げました。関西聖教新聞社の記者と名乗られる方にも、現法主上人に対して違背することがどれほどいけないことかをお話し致しましたら、東京の聖教新聞社にもこのことを話してくださいと言われました。  信心は、かねがね教えられておりますように、自分の都合で判断しても通らないものです。そして一方、御本尊様の有り難いことは、間違いを犯しても罪障の消滅を願い、再びみ教えのままに信仰に徹すれば、先祖の積まれた功徳は、子孫の上に変毒為薬の幸いをもたらしてくださるのだと実感しております。  またこの信心は、日興上人の『佐渡國法華講衆御返事』にもありますように、[[手続ぎの師匠]]を閣(さしお)いたわがままな信心は、謗法になるということです。私たちは凡夫ですから、人の好き嫌い、相性の良し悪しなどございますが、その気持ちを信心の世界に持ち込むことはできません。猊下の御名代としての立場で御指導下さる各寺院[[御尊師]]の導きを受け止め、自分のお寺の御尊師様が宗内に輝く高僧になっていただくそのために、信徒の立場でどうしたらよいか、世法上のことも含めてお守り申し上げる、これが信徒の心のあり方だと思っております。僧俗一致、異体同心の信心が本当に実現できた時、各々の境涯は自然に向上していくものだと思います。  義父が亡くなり主人は総代を仰せつかり、また東海地方部地方部長に推薦されました。法華講括動に長野、山梨、静岡の各支部に出向きました。忙しい日々の私共は、夫婦で観光旅行などしたこともなく、このような活動に出向いたのが今は思い出となっております。  平成三年より学会問題が始まり、日顕上人にお目通りの砌(みぎり)、 「日蓮正宗を正しく後世に伝えるため、自分はかゆをすすっても守り抜く」 とのお言葉を頂いたのでございます。血脈付法なされた御法主上人の、誰人より重い責任を一身に背負われたお姿を、尊く有り難く拝しました。  創価学会が破門され、学会の大謗法に悪のりした右翼団体の街宣車が、荘厳清浄であるべき総本山の聖域を連日巡回しながら、ボリュームいっぱいに宗門攻撃の罵言雑言を撒き散らしたり、悪意に満ちたいたずら書きが、総本山各所に頻発しておりました。  本山では、すでに御僧侶方による夜警が行なわれており、心ある同志と共に、なんとかせねばならぬと、お寺のお許しを頂き、塔中の講頭さん方に集まっていただき相談致しました。皆さん異口同音に、このような時こそ体を張ってでも[[お山]]に御奉公するのだと申され、各支部の当番制のもと、警備に当たりました。  主人は責任者として、毎夜お寺へ通いました。私もできるだけ行動を共にしました。各講中の婦人部の方々は、夜食作りに集まり、塔中の奥様方の差し入れも度々のようにございました。御本山をお護りしようと全国的にわき起こった赤誠の真心が一層の勇気と使命感を奮い立たせてくださいました。  外国から本山の様子を知りたいと、夜遅くタクシーでみえられた方々と、言葉は通じなくても温かな食事で心を通わせあったこともしばしばありました。  また右翼の事務所に話し合いに出向いた折も、一時間たって出てこなければ誰かに連絡せよと、主人に言われ緊張して車中で待っていた時のこと。下之坊の御会式を妨害せんとした車の前面に立ちはだかった時のこと。主人は自分の責任で当たり前のこととしてやっておりました。  衣食も質素なものを好み、御供養は精一杯頑張りたいと願っておりました。一月に於ける一時間唱題行もでき得る限り出席させていただき、平成十六年は初めて皆勤できて、猊下の記念短冊を頂き喜んでおりました。  猊下より、毎日勤行の後は御書にふれるようにとの御指導があった時からは、必ず[[御聖訓]]を朗読しておりました。目立っことは嫌いでしたが、与えられた責任は、些細なことでも果たさずにはいられない性格で、年と共に体の衰えが進み、若い時からの無理がたたり両手の筋肉が弱くなりますと、首から紐をかけ合掌の姿勢を保つよう工夫しておりました。寝たきりにならないように、ふらつく足を鍛えるよう頑張っておりました。  今年の元朝勤行は、初めて 「皆さんに迷惑をかけるので欠席するから」 と言って、長男と私に願いを託し、新年のお目通りも代理を頼むと言われました。  二日の午前中、不自由な体で庭を掃除し、午後には里帰りした娘、息子、孫達一族と夕食を共にし、母屋に戻り一息ついた時、 「もう今年いっぱいは生きられない、身辺整理をせねばならない」 と言いました。そして勤行唱題の後、御聖訓を拝読し、三十分後には帰らぬ人となりました。  両手を胸の上に組んで前屈みになった姿を抱きかかえた時に、顔は私が今まで見たことのない満ち足りた、無邪気な笑顔の主人でした。  猊下の大導師を賜わり、大ぜいの御僧侶方の御回向を頂戴し、厳寒の中にもかかわらず大ぜいの人びとに御参列頂き、通夜、葬儀を執り行ないました。  突然の出来事に、思考も止まったまま、ただただ御本尊様に唱題していくうち、三日目になって、やっと主人のあの時の何とも言い難い笑顔の意味が解りました。主人の願いどおり仏様がお迎えに来てくださったのだと実感し、あたらめて御本尊様に感謝申し上げました。人は生まれていつか死んでいきます。私の信心ではまだまだですが、主人にあやかりたいと思っております。  私は今までの経験から、日常生活全てを仏様に祈り、御仏意をいただいて過ごしていれば、いかなる事態が起きようとも恐れることはないと思います。未熟な自分が、人として正しい行動ができるように祈りました。三十数年に亘る民生委員、保護司活動も仏法を根幹とした平らな目で、相手に接することができました。一人ひとりが仏性を持っているが故に、人間としての尊厳がある、個々の生命に備わる仏性を自覚するよう、いかにして働きかけるか、それは自分自身が御本尊様に唱題していくしか道はありません。相手が前向きに変化していく姿に、御本尊様の御慈悲を感じ、己の信も強まります。時に当たって何が一番大事かを、的確に捉えられるのも御仏意ゆえであります。  猊下は私たち信徒を、いかにして成仏へ導くかの大慈悲をくだされ、一万総会、三万総会、六万総登山、三十万総登山の方針を打ち出され、夏期講習会、一月の唱題行、支部総登山などなど先頭に立たれ実現に向かわれました。  とてもそんなことはできないと思っていた私共も、御命題に応えるべく一生懸命になり、実現を可能に致し、知らず知らずのうちに功徳を積ませていただきました。  ありがたい時に生まれ合わせたものよと、主人とよく話し合いました。今はただ、息子、孫達が御本山と猊下をお護りできる人間に成長してもらいたいと、朝夕に御祈念いたしております。故人となった主人の思いも同じで、家を継ぐ孫に 「お題目を唱えなさい」 と、通夜の晩、夢枕に立って言い遺しました。  猊下は、御高齢の身をも顧みず、大聖人様の御遺命を体現なされ、度々の海外広布の先陣に立たれております。  私共も地涌の生命を自覚いたし、最後に主人と話した折伏を成し遂げたいと願っております。  信行を全うすることは、御先師様への回向を果たし、未来をひらく子孫の上に幸いをもたらす功徳を、積んでいくものだと思います。  皆様は、大阪地方部の信心の根源となられる方々でいらっしゃいます。尊い使命を持たれた、皆様お一人お一人を尊敬申し上げます。  法統相続なされてこそ、皆様の一生が宝となって輝き、現在の私共が、先祖の遺された功徳に包まれて生活させていただいているのと同じく、百年後、二百年後未来永遠に続く同胞のため、更なる御活躍と御健勝を心よりお祈り申し上げます。 ---- 妙教 H18.3 第162号 より転載 {{category 体験,ご}}