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師弟相対

師弟相対

 概要

師弟相対(していそうたい)とは本宗信仰の要であり、現在の法主上人を師匠と仰ぎ、法主上人の指導に従って信心修行に励むことによって、御本仏日蓮大聖人の御利益を頂ける、という信心の道筋を表した言葉である。
法華経の教えの最も大事なところは能所不二である。つまり能化(先生)と所化(生徒)が不二(同じ境界に立てる)ということである。言い換えれば師弟不二である。
これを言葉ばかりでこういうと、一足飛びに「君も私も仏だね」、と不遜な理解をする高慢な不信心者がいるが、勿論師弟不二になる為には信心修行が必要なのは当然である。
その信心修行に不可欠なのが、師弟相対、つまり日蓮大聖人から始まる下種仏法が自分にまで伝わった経路を重んずる信仰姿勢なのである。
能所不二に到る為の師弟相対は単に事相上の手立てと言うだけではなく、法そのものに属する、欠くべからざる重要な要素である

 例えば創価学会の主張は「信心」があれば大聖人に直結出来るという短絡的なものである。
しかし実際はどうか、彼等の存在自体が「信心」だけでは道を誤るというよい実例となっている。
 要は何に対する信心なのか、その信心はどこから来たかという事が明確にされねばならない。 「行体行儀」も信心の表明手段の一つであり、信心があっても行体が伴わなければならない、即ち行体は信心という要素に付帯するものである。
 「謗法不可同」は何を以て謗法と判ずるかという観点からやはり信心の正体が明らかにならなければよく論ずることは出来ない。
 例えば創価学会が始めた友人葬という謗法行為も、これは破門前、離島や海外の住職が本山へ登山などで暫く留守の間に信者が亡くなった場合、南国とて遺体が腐敗するので、住職が指示して信徒幹部に葬儀を差配させ、後日改めて住職が弔っていた、という実例があったのを良いことにして、破門後も自分達で葬儀を執行できるのだと言って始めたものである。
 僧侶抜きで在家が葬儀を執行するという行為は形の上では一緒である。しかし、そこに血脈嗣法の法主上人の代理か否かという決定的な違いがあり、それによって順法ともなり謗法ともなるのである。
 やはりそこには「師弟相対」という師弟子の関係を正す「手続ぎ」の要素が根本となるのである。
ゆえに本宗山法山規の元となる化儀抄121箇条の本質も「師弟相対」をあらわしているのである。


[教義,]

最終更新時間:2024年07月10日 11時26分32秒