!!折伏育成を一歩一歩     彈正寺信徒 M井E子さん  皆様こんにちは。ご紹介いただきました弾正寺支部のM井E子でございます。どうぞ宜しくお願いいたします。  私は一九六二年二十四歳のときに、日蓮正宗の信仰を知り、御本尊様に巡り会うことが出来ました。  [[爾来]]半世紀以上、その間、素直で純真な信心を貫いてきたとは到底申せません、しばしば頭に大小の疑問符が点滅するなかを、ひたすらお題目を唱えて信心の綻びを繕い繕いしながら、ともかくも今日まで信心を続けてくることができました。そのような私を御本尊様を常に大慈大悲のお心でお護り下さり導いて下さいました。そのことは人生のいくつかの大きな局面で、また何気ない日常生活のなかで確かに実感することが出来だのです。  とは言え、私はずっと自分の信心が何か雰(もや)の中にでも迷い込んでいるような感じに捉われていて、この雰の中から少しでも抜け出したいと願って一念発起、二〇〇七年七月十三日から[[丑寅]]の刻に勤行を始めました。二時半から五座と唱題を一時間半、時たま他所に泊まるとか高熱でダウンするとかでない限り、毎日欠かさず行いました。この時刻にお題目をあげていると、御本尊様に巡り会えた有り難さと喜びが一層、しみじみとこみ上げてくるのでした。これを二〇一四年七月十二日まで、まる七年間続けました。  その間、年来の親しい友人が入信し、長年に亘って信仰を離れていた姉が勧誡を受け、後に姉の夫・長女・長男が順次御授戒を受け、私か生きているうちは無理かと思っていた夫が御授戒を受け、インドネシア在住の次女が、私が何も言わないのに、御授戒を受けに来日し、半年後に中国系インドネシア人の夫を連れて来て御授戒を受けさせ、揃って[[総本山]]に参詣し、大御本尊様に御目通りをして帰って行ったこともありました。  これらそれぞれの背景には、それぞれのドラマがあるのですが、なかでも私自身が御仏智の不思議に今でも驚いているのは、何と言っても夫の入信というできごとです。  その経緯はそれこそ一編の長編小説が書けるくらい興味深いものがあるのですが(と言っては他人事みたいですが)その表層部分の極々あらましだけでも、リニアモーターカー並の早送りでお話しさせて頂きたいと思います。  夫の亡くなった母は熱心なクリスチャンで、その影響下に家族親戚縁者一同がキリスト教で一家は教会でも中心的な役割を担っていました。夫も幼少時から、そうした環境で育ち、学校も暁星からICUへ進み 学生時代の大半は教会活動に打ち込んでいたと聞いております。  一九七九年に私は日蓮正宗、夫はキリスト教とお互いにそのことは承知の上で結婚し、爾来、信仰についても仕事や私生活に関しても、互いに一切干渉せず、子供の教育に関して一致協力した外は「私は私、あなたはあなた」と夫婦というより「友人同居」状態でやってまいりました。私は勿論、夫にも日蓮正宗の信仰をして欲しいと願ってはおりましたが、日頃強く勧めるということはありませんでした。夫はひとが強く言ったからといって、それで聞くような人ではないという決め込みもありました。  時折、機会を捉えて「本当に御本尊様に護られているのよね」とか「貴男もお題目をあげたらいいんじゃないの」などと言う程度でした。  先に申したように、私はあるときから丑寅の刻に勤行を始めましたが、それを機に夫の入信を真剣に願い、御本尊様に御祈念するようになりました。その勤行を始めて二年くらい経ったある日、私が何も言わないのに、夫が「僕もそろそろお寺へ行こうかなあ」と言ったのです。待ってましたとばかり、その頃、弾正寺の[[執事]]の[[御尊師]]様が月一回持っておられた勉強会に連れて行きました。夫は勉強会に熱心に出席して半年経ったある日、自ら申し出て御授戒を受けたのです。それぞれが異なる信仰を持って結婚してから四十年が経っていました。こういうこともあるのだ。御本尊様の御慈悲と[[御仏智]]にただただ感嘆するばかりです。  夫の改宗は、夫の弟妹はじめ彼を知る人々にとっては、まさに晴天の霹靂だったようですが、さらに関係者を驚かせたことがありました。  横浜の鶴見に曹洞宗大本山総持寺というのがありますが、同寺と村井の家とは深い関わりがあり、夫の父は[[檀家]][[総代]]も務めておりました。父が他界した後、夫は長男ですので、世間一般の慣わしからすれば、墓その他、祭祀を承継すべき立場であり、総持寺から何度も承継手継の督促があったようですが、夫は自分は日蓮正宗に改宗したからと、はっきりそれを断り、[[離檀]]届けを出して、総持寺から完全に離れたのです。  折伏に行くと、よく自分は何々家の長男だから改宗はできないと言う人がいますが、総持寺との先祖代々からの浅からぬ関係、夫の諸般の環境などからして、これは普通はなかなか出来ることではないと思います。  夫のことを、日頃は「世間知らずだ、宇宙人だ」などと馬鹿にしている私も、この一件では、大いに夫を見直した次第です。  次に、御本尊様のご加護と御仏智により、私が昨年御授戒に導くことができた二人のうち、一人の方についての体験をお話しさせて頂きたいと思います。  現在は仕事を完全にリタイアして既に十数年が経ちますが、私は二十代から六十代まで弁護士をしており、これからお話しする、あき子さんもかつての依頼人の一人でした。彼女は努力家で真面目な人なのですが、よくも一人の人間に、こうもあれこれ不幸が積み重なるものだと驚くほど、次々といろんな種類の災厄が降りかかって、悩み苦しみが絶えないのです。彼女にこそ信心をして欲しいと思って仕事上の委任関係が終了した後で何度も話したのですが、どうしても信心しようとしないのです。  一番の良薬をこんなに勧めているのに、それは飲もうとしないで、いつまでも何かと頼ってこられることに私もだんだん疲れてきました。そして、いつしか交流は途絶えて、十年以上が経ちました。  一昨年、秋のある日、お題目をあげていると、ふと彼女のことが思い出されて、その後どうしているかしら、想像しても仕方がないので、一度訪ねてみようと思い立って、古い住所録から住所を見つけて、グーグル検索で、最寄りの駅と大体の方角の見当をつけ、十月のある日、訪ねて行ってみました。  彼女は以前から健康にかなり問題があったので、消息を知るのがちょっと怖い気もしました。漸く捜し当てた家の表札が、かなりすすげているのも、何となく不安を掻き立てました。チャイムを押して、しばらく待っていましたが、応答はありません。静まりかえってはいますが、空き家という感じもありませんでした。ここに住んでいるらしいことが分かっただけでも来た甲斐があったと思いながら、その日は帰って、早速手紙を書きました。  一週間経っても、二週間経っても、一月経っても、何の音沙汰もありません。これまでもいろんな人に信心に関して手紙を出しても、梨の礫というのは毎度のことに近く、特に珍しいことではありませんが、私の知るあき子さんは、几帳面で律儀な人なので、たとえ内容はどうであれ、そう日が経たないうちに何らかの応答はしてくるものと思っていました。そこで私が思ったことは、ああ、やっぱり彼女は私を恨んでいるのだ、返事をしてこないのは単なる無視というより、積極的な拒絶の意思表明だと受け取ったのです。  以前、私のリタイア後も、何かと頼ってくるようでありながら、信心のことになると心を閉ざしてしまう彼女が段々重たくなって、次第に退いてしまったことについて、ある種の負い目のようなものが、ずっと私の心のどこかにあったのだと思います。ですから、彼女が私を恨んでいて今更関わりたくないと思うのも尤もだと変に納得してしまったのでした。そして一年以上が経ちました。  私は車が運転できないこともあって、壮年部のO越信夫さんには大変ご助力を頂き、九十九里の片貝とか長生郡の一ツ松とか車でなければ容易に行けないような所に、一緒に行って頂く事がありました。  十一月三日文化の日、都賀の方の訪問先からの帰りがけ、まだ少し時間があるので、この際、あき子さんを訪ねてみようということになりました。私は彼女のことは幕引きをはかったつもりでいながら、やはり心に掛かるものがあったのです。  一年前に自力で捜し当てたことがあるし、今度はカーナビもあるし、大丈夫と目指す方向に向かったのですが、なかなか行き着くことができません。十一月のことで暮れるのが早くだんだん焦ってきました。  でもここまで来だのだから、このまま引き上げるなんてあり得ないと、何人もの人に聞きながら、漸く捜し当てることができました。  漸くたどり着いた安堵と、一抹の不安を覚えながら、心してチャイムを押しました。応答はありません。一呼吸してもう一度しっかり押してみました。まだしーんとしています。留守なのかしら、こんな夕方なのに、立ち去り難い思いで立っていると、やがて「はい」という低い声がしました。「こんなお時間にいきなり伺って申し訳ありません。村井です」ややあって、玄関がすーっと開いて、薄闇のなかに幻のように人影が現れました。私は一瞬たじろぎました。これが本当に彼女なのだろうか。  「あき子さんですよね。」「村井先生?」声にも顔にも何の感情もみられません。十数年ぶりの再会を驚くでもなければ、突然の訪問に対する当惑や困惑すらもありません。ああ、こんなになってしまったのだ、私は愕然としました。  「ずっとあき子さんのことが気になっていたの。お会いできてよかった。一年ほど前に一度伺ってお留守だったからお手紙出したんだけど着いたかしら」と言うと「お返事しなくてすみませんでした」とぼそっと言いました。「いいのよ。こうしてお会いできたんだから」  時間も時間でしたし、彼女はたっているのも辛そうにみえました。既に来意は十分分かっているはずですので、長居はやめようと思い。  「私があれこれ言うより、とにかく一度お寺に来て御本尊様のご[[相貌]]を拝して頂いて、ご住職様からお話を伺って欲しいのよ」と力を込めて言いました。彼女は「はい」とは言いませんでしたが、拒否もしませんでした。  私は取り敢えず今日はここまでとしといた方がいいかなと思っていたら、それまで車の中で待っていたO越さんがいつの間にか傍に来て、「今度の土曜日はご都合いかがですか?」と聞きました。  「ああ、こうやって具体的につめていくものなのだ」と私が感心していると、あき子さんが「土曜日ならいいです」と返事をしたのです。よかった!「では8日土曜日の午後1時半にお迎えにあがります」  「お会いできて本当に良かった。くれぐれもお体大事にね」そして彼女の両手を握りしめました。彼女の手は力なく握り返すでもなく、表情は相変わらず固まったままでした。  思いもかけない展開に、私はかなり舞い上かっていましたが、  「気を引き締めてしっかりお題目を上げましょう」と、さすがO越さんは冷静で、まずは御住職様にご報告するべく、既に辺りは真っ暗になった京葉道路をお寺に向かいました。  そして御本尊様のご加護により、何の障害もなくあき子さんをお寺にお連れすることが出来たのです。お寺に着いて、彼女を伴って一番前の席に座り御本尊様にお題目を唱えると、彼女も小さな声ですがはっきり「南無妙法蓮華経」と唱えました。そしてご住職様は優しくお話頂き、あき子さんは無事に御受戒を受けることができたのです。私は今更ながら御本尊様のご慈悲とご仏智に驚き感動しました。これまでの経緯を振り返ると、誠に感慨無量のものがありました。  それから、私は原則として週二回あき子さん宅を訪問して、今の所はまだ方便品と自我偈とお題目は十分だけですが、一緒に勤行唱題をしています。信心のことで話したいこと、教えてあげなければならないと思うことは山ほどありますが、性急にあれこれ話してもとても消化できないし、そんなに厳しいのならできないと退かれてしまっては元も子もないので、ここは私も「忍の一字」で一緒に「かたつむり伏態」で歩みを運んでいます。  「勤行の意義と功徳」などの冊子を少しずつ読んだり、体験シリーズの中で彼女に合いそうなものを選んだり、大聖人様の御消文の中から、私自身これまでに何十回となく拝読して励まされてきた御文をいくつか抜き書きして掌サイズの御金言集を作ったり、それらの御文を読む時に大聖人様の御生涯や[[対告衆]]のお弟子方の事を話したり、私自身のこれまでの数々の功徳の体験の中から、彼女にアピールできそうなものを選んで話したりします。  そんな話を彼女は興味をもって聞いているようです。彼女の方からも自身の生い立ちや生活のことなどを話してくれるようになりました。はじめは全く無表情だった顔にも次第に表情が出てきて、時に笑顔も見られるようになりました。  とは言え、長年のうち重なる苦難に心身にわたって疲弊し、暗く固く殼に閉じこもっている人に心を開かせ励まし、着実に御本尊様に向かわせていくことは、私のような凡庸な者にとっては並大抵のことではありません。自分の信心の弱さ力の無さに、時にめげそうになる事もありますが、「御本尊様が仏道修行をさせて下さっているのです」と御住職様のお励ましを頂きながら、常に御本尊様の御加護を念じ、「信心して本当に良かった」というあき子さんのひと言を聞くまで頑張り抜きたいと思います。  以上、私のささやかな仏道修行の一端をお話させて頂きましたが、これからも御法主上人猊下の御指南を心に刻み、支院長様はじめ御住職様のご指導のもとに、一歩一歩精進して参りたいと思っております。ご清聴誠に有り難うございました。 ---- 千葉布教区推進会報93号 (H27.05) {{category 体験}}