!!先日、ある方が話されていた内容 僧侶は法臘(僧侶になってからの年数)を重んずる。 大聖人からの血脈が流れているからだ。 僧侶第一号は日興上人である、 大聖人滅後、御歴代を通じて現代にまで伝えられている仏法を信じて我々は成仏を期することが出来る。 だから御歴代上人を始め、先輩僧侶を敬うのである。 僧侶は信者を作れるが、信者からは決して僧侶は生まれない。 正しい宗教とインチキな宗教の差異3点 ・お布施の多寡でその信者を寓さない/遇す  当宗では一紙半銭なりとも志の顕し物であると受け取る ・退転した人を不憫に思う/呪い迫害する  当宗は現当二世の信心であり、今から未来に向かう宗教である  過去に如何なる功績があろうとも現在が謗法ならば無意味であり、  過去に大謗法を犯していても現在信心をしているなら問題がない ・どんな質問にも答えられる/不都合な質問は不信心だと却下する  当宗は誠実に対応する。その場で答えられないことでも調べて答えを出す。   /\/\/\/\/\/\/\/\/\/\/\ 日蓮正宗は猊下に付き従って大御本尊を信ずる所に功徳ありという宗教である。 大聖人滅後およそ100年の日有上人もそういっている「斯の如く我を信ぜよ」と。 当然のことながら当時は創価学会なぞ姿形もない。 この信心においては大御本尊・時の猊下より優先されるものは皆無であるはずだ。 ところが創価学会は民主主義であるとか、時代に合わないだとか、様々な美辞麗句を以てこの信心のもっとも根幹である大御本尊と猊下よりも創価学会組織の存在の方が優先する主体であると主張するようになった。 これが池田大作の慢心であり、大謗法の正体なのだ 因果に縁あり。因果のみにては運命論となり、自分の宿命は変えられないことになる。 そこに縁がある事が重要であり、縁によって自分の境涯を変えられる。 たとえば盗賊の家に生まれた(因)親の跡を継ぐのが定めだ(果)しかし途中において正師に遇い、諫言に耳を傾ければ(縁)これを免れる事が出来る。 だから、今、大謗法の創価学会はいけませんよ、という私の声に耳を傾けることが出来るか否かということは重かつ大なる要素であるといえるのだ。 {{category 創価学会}}