!!!大聖人 !!概要 大聖人(だいしょうにん)とは鎌倉時代の僧侶である日蓮大聖人の尊称であり、日蓮大聖人を下種仏法の御本仏と尊崇する日蓮正宗だけがこの尊称を用いている。 『開目抄』に、 仏世尊は実語の人なり、故に聖人・大人と号す     (新編 [529|http://honshubou.main.jp/gosho/0529.htm]) とあるように、大聖人は仏様に対する尊称である。 しかし身延日蓮宗等は日蓮大聖人の事を釈尊の遣い等とみなして飽く迄久遠実成の釈尊を仏と崇める為、日蓮大聖人の事を日蓮上人、日蓮大菩薩等と呼んでいる。 これは『種種御振舞御書』に かゝる日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし。     (新編 [1066|http://honshubou.main.jp/gosho/1066.htm]) と戒められている「悪しく敬う」姿である。 姿形は一介の僧侶であっても、その内証は妙法蓮華経であり、 日蓮大聖人の本地をたずねれば久遠実成の釈尊が菩薩として修行した妙法を説かれる、久遠元初自受用報身如来なのである。 全ての仏の成仏の素因たる妙法蓮華経を説かれるが故に日蓮大聖人は御本仏様なのである。 しかしてその御本仏様は我々と同じ名字即の凡夫としてこの世に出現された。 これは決して高貴な身の上を凡下・凡夫の姿にやつして出現されたわけではない。 まさしく御本仏のお姿は無作にして着飾ることのない名字即の凡夫なのである。 これを「顕本は日蓮」という。 また、 日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。(開目抄563) の開目抄の御文を日寛上人は、次のように解釈されている。(開目抄愚記・御書文段167a) 頚はねられぬ ⇒ 「及加刀杖」(勧持品・開結374) 魂魄佐土の国にいたりて ⇒ 「数々見擯出」(勧持品・開結378) 故に日蓮大聖人は「不愛身命、但惜無上道」(勧持品・開結377)の法華経の行者である。 ・・・というのは付文の辺・通り一遍の理解である。 元意の辺とは何か、 「当に知るべし、此の文の元意は、蓮祖大聖は名字凡夫の御身の当体、全く是れ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕われたもう明文なり。」 竜の口の刎頸によって、成道し、本仏となられた、と。 {{category た,だ,人名,教義,用語}}