!!!題目の大利益  本門の本尊を信じて、真剣に強盛に題目を唱えるところ、実に不可思議な大利益が生ずる。 『祈祷抄』に、 「大地はさゝばはづるゝとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」 (御書[630|http://honshubou.main.jp/gosho/0630.htm]頁) との御指南がある。この御文をそのまま行じ、実践して、想像もつかない大利益を受けた人々は数えきれないのである。 医師より余命三カ月と宣告された人が、真剣な唱題で快復したことや、あらゆる医師が手を上げる(お手上げの、サジを投げた)難病を救われた人々、さらに大事故による後遺症が完治した等々の功徳体験は、その跡を絶たない。そのほか「妙とは不可思議」と言われるように、ありえないほど不可思議な利益が続出している。  これは大御本尊の功徳が法界に遍満し、その真理が虚空に通じているから、題目を真剣に唱えるとき、その人の命に功徳が冥合するのである。  人の命は本来、不可思議である。しかし、題目を知らなければ、その命が不可思議の功徳を生じない。謗法によって悪業が生じ、悪業によって苦が生ずる。あらゆる身体の不調も、医師も望みを絶つ(ような)難病も、知らず知らずに過去に犯した法に背く罪によっている。その流れのままでは、あくまで苦のなかの命である。妙法を行ずるとき、その苦の命が一転して不可思議の功徳を生ずる。これを信じて病苦の人、あらゆる苦しみに悩む人は、強盛に唱題をされたいものである。(するべきである、してほしいものである)  また『妙一尼御前御消息』に、 「法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかへれる事を。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となる事を」 (同[832|http://honshubou.main.jp/gosho/0832.htm]頁) との御文を拝する。  人生の様々な宿業と出会いのなかにあって、その生存中に種々の不足、不満、不幸が訪れ、そのなかに埋没しつつある人も多い。しかし、右の御金言のように、御本尊を信じ、妙法を絶えず受持信行するとき、冬のような厳しい人生が春の温かい幸福な命となる。  その変化は、外からでもなく、内からでもなく、ただ妙法の功徳であり、また、その功徳が外からも内からも顕れて、真の喜びと幸せを生ずるのである。夫婦関係、家族関係、友人関係、職業上の種々の人間関係による様々な不信、反感、冷酷等の悪に、軽蔑、嫉妬等々の苦しみも多く、また通常の人間生活より落ちぶれて、人生の闇を這うような人々の、悩みを悩みとも思わない衰退した心の姿等、世の人々の苦悩は計り知れない。しかし、妙法を真剣に受持するとき、その冬の人生は必ず春と開いて行くのである。  さらに、大聖人の御聖訓に、 「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」 (三三蔵祈雨事・同[874|http://honshubou.main.jp/gosho/0874.htm]頁) との文がある。  要するに、仏法の正義は、その正義としての在り方が現実の証拠として顕れることが最も大切であるとの意と拝される。  大聖人御一期の御化導は、あらゆるところに、この現実の仏法の不可思議な証拠を顕されている。  しかし、この現証は大聖人御一人ではなく、妙法を信じ、行ずるすべての人に顕れるのであり、それが病苦の克服、生活上の正しい信念と確信、力強い生命としての実践、すべての人間関係の好転等の諸徳を実証した人々においての、現実の証拠として存するのである。故に、以上の宗祖の御教示を深く体して(実践して)、信心唱題に励むことが大切である。 ---- 御隠尊日顕上人猊下『[[すべては唱題から]]』 1/61 {{category すべては唱題から,御指南}}