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毒矢の譬の変更点

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!!!毒矢の譬
            仏説箭喩経より
毒矢の喩えは折伏の際よく用いられますが、意外にも御書には引用されていません。しかし有名な話なので紹介します。
 昔々、インドのお釈迦様のお弟子さんでマラクマラという人が居ました。
この人は、とても、ひねくれた人で、こんな事を考えました。
 お釈迦様は全てを悟ったと言っているけども、じゃぁ
この世は永遠なのか、それともこの世の終わりがあるのか、
この宇宙は無限なのか、それともどこかに行き止まりがあるのか
魂と体は一体なのか、別々の物なのか 生命は永遠なのか、死んだらそれっきりなのか、
という事について何も教えてくれない。もしこれらのことについてはっきりと言わないのなら、私はお釈迦様を見限って弟子であることをやめてやろう。
 そう思うとじっとしていられず、お釈迦様の元へ行って、今言った質問を浴びせかけました。
 そして、はっきりと答えを言ってくれなければ修行をやめます、こんな事も教えてくれない先生にはついていけませんからね、と偉そうに言いました。
 するとお釈迦様は、
 お前さんは、これまでに、この問題、つまり宇宙は無限か、とか、生命は永遠か、とかの答えが分かれば自分は真剣に修行します、と私に言ったことがあるかね?
と逆に聞き返しました。
 すると、さっきまで偉そうにお釈迦様に質問を浴びせていたマラクマラは大変恐れ入って、
 いいえ、言ってません
と答えました。
お釈迦様は重ねてこういいました。
 お前さんが言うように、私(お釈迦様)は今まで生命は永遠かどうか、宇宙は無限かどうか、魂と体は一体かどうかというようなことを話したことはないし、
お前さんも、最初からそうした事が分からなければ修行が出来ないなんて一言も言っていない。
にもかかわらず、だ。お前さんは私に対して、こんな質問に答えられないようなら先生として失格だ、と訳もなく人を馬鹿にしたような言い方をしているのだ。お前は愚か者である。
 それからお釈迦様は人々の前で、こういいました。
お釈迦様に従ってろくに修行もせずにいる愚か者が、
先に自分で勝手に答えを用意しておいて、なんとか自分に都合の良いように、お釈迦様に答えさせようとしている。
そのようなことをしているうちに、真実を見ることなくして死んでしまう事にその者は全く気がついていない。
それは例えばこんな話と一緒である。
ある人が、毒矢で撃たれて倒れた。
その家族はなんとかその人を助けようとお医者を呼んだり、矢を抜こうとしたりしているのに、その人本人はこんな事を考えていた。
 俺はこの矢を誰にも抜かせないぞ。詳しいことが分かるまで、絶対にな。
 まず、この矢を撃ったのは誰だ、名前は? どんな顔をしている? 背の高さは? 肌の色は? 生まれはどこだ? 
 それに、その弓は何の木で出来ているのか、弓に使われている弦は何で出来ているのか、取っ手は何で出来ていたのか? それから、弓矢は何の木で出来ているのか? とがった鏃(やじり)はどんな糸で括り付けられていたのか、後ろの方の羽は何の鳥の羽か? 鏃はどんな形をしているのか?  
 まだある。その鏃を作ったのはどんな人か、名前は何だ。どんな背格好だ、肌の色は? どこの出身だ? この憎っくき相手の全てが分からない内は俺はこの矢を抜かないぞ
とまぁこんな事を言っていたらどうだろう?
答えが分かる前にその人は毒が回ってすぐに死んでしまうだろう。
 それと同じように、この世の終わりがあるかないかとか、宇宙は無限かどうかとかを問題にし、自分が思うとおりに師匠に答えさせようとしている者は、仏になる道を学ぶ前に死んでしまうのである。
 もしこの世は永遠に変わることが無く死ぬことも壊れることもない、有常である、という間違った考えを持っている人がいたら、私に従って修行しなければならない。
 しかし、この世の事物は有常即ち永遠であるという間違った考えを持っている人は私に従って修行することはないだろう。
 もしこの世は永遠に変わることが無く死ぬことも壊れることもないなどと言っても、現実に人は死ぬし、物は壊れる。病気にもなるし、いつかはヨボヨボの爺さん・婆さんになる。世の中はどうにもならない苦しみばかりで永遠に変わらずに無くならない物なんてない。 
 だから、この世は無常で儚い物なのである。
この世が永遠に変わることが無く死ぬことも壊れることもない、という考え方は、正しくないし、仏様になる道ではない。だから、この世が永遠に変わることが無く死ぬことも壊れることもない、ということは言えないのである。
 では私は何を教えるかと言えば、ただ、世の中は苦しみの世界である、というのみである。この考えに立つときに、正しい物のとらえ方が出来、仏様になる道となるのである。
私が言わないことは捨てて、私が言うことは忘れてはいけない。
 とお釈迦様は言われたのでした。
 これが有名な毒矢の譬ですが、要するに、人間、寿命があります。四の五の言い訳をしてこの信心を出来ない、と言い続けていると、結局最期まで信心をすることなく、ついには死んでしまいますよ、という意味です。
 バカなテレビを見てゲラゲラ笑って過ごしても、御本尊様に一生懸命読経唱題しても、費やされる時間は一緒です。
 一生は短いのです。同じ時間を過ごすなら、死んだ後、生まれ変わった後で後悔しないよう、功徳善根を積むようにしなければいけません。        参考:大正蔵一― 九一七C 
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本種坊だより201306掲載
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