謗法(ほうぼう) 正法誹謗の略。誹も謗も、ともに「そしる」の意で、要するに正しい教えを謗(そし)る事である。 正しい教えとは人々を成仏させる教えであり、これを謗り攻撃する、台無しにするという行為は人々の成仏を妨げるのみならず、全ての仏を殺す行為に他ならない。故に謗法の罪は重く、親殺し等の[[五逆罪]]よりも罪深いのである。 正しい教えは御本仏日蓮大聖人より歴代の御法主上人を通じて現代の日蓮正宗だけに伝わるものである。 三宝とは仏宝・法宝・僧宝のことであり、この三宝は一体のものである。 法があっても仏様がいなければ私たちに説かれる事はなかったし、 法を説かない仏様は仏様ではないし、 また仏様亡き後、説かれた法を後代の我々にまで伝えてくれるのは僧侶であるから、この僧侶がいなければ、私たちは仏法の功徳利益を得る事は出来ない。そういうことから、三宝は一体なのである。故に例え卑しい身であったとしても正法を伝える僧侶を謗ることも謗法の一分になるのである。  また、『戒体即身成仏義』に 謗と云ふは但口を以て誹り、心を以て謗るのみ謗には非ず。法華経流布の国に生まれて、信ぜず行ぜざるも即ち謗なり。(御書[10|http://honshubou.main.jp/gosho/0010.htm][頁|http://honshubou.main.jp/gazo_/gazou.php?bunken=sp7&page=10]) とあるように、末法の日本にあっては信じないこと自体が謗法である、と示されている。 また、『十法界明因果抄』に、 慳貪等無き諸の善人も謗法に依り亦謗法の人に親近し自然に其の義を信ずるに依って餓鬼道に堕することは、智者に非ざれば之を知らず。能く能く恐るべきか。(御書[208|http://honshubou.main.jp/gazo/gazou.php?sho=sp&p=0208]) とあるように、謗法の者に縁することでも、その害を被るのである。 故に警戒しなくてはいけない。 {{category 用語,ほ,教義}}