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『戒体即身成仏義』


(★8㌻)
 亘し給へり「別して論ずれば、然りと雖も通の意知るべし。余色・余塵・余界も亦爾り。是の故に須く仁譲等の五を明かすべし」云云。余色とは九界の身、余塵とは九界の依報の国土、余界とは九界なり。此の文は人間界を本として、五常・五戒を余界へ亘すなり。但し持たざる五戒は、如何に三悪道には有りけるぞと云ふに、三悪道の衆生も人間に生まれたりし時、五戒を持ちて其の五戒の報を得ずして三途に堕ちたる衆生もあり。此の善根をば未酬の善根と云ふ。又既に人間に生まれたる事もあり、是をば已酬の善根と云ふ。又無始の色心有り。此等の善根を押さへて正・了・縁の三仏性と開会する時、我が身に善根有りと思はざるに、此の身を押さへて「欲令衆生開仏知見使得清浄故」と説かるゝは、人天の果報に住する五戒十善も、権乗に趣ける二乗も菩薩も「皆已に仏道を成ず、汝等行ぜし所は是菩薩道」と説かれたるなり。されば天台の御釈に云はく「昔は方便未だ開せざれば果報に住すと謂へり。今方便の行、即ち是縁因仏性と開するに、能く菩提に趣かしむ」云云。妙楽大師は「権乗の道に趣向せし者も、一実の観・一大の弘願を以て之を体し之を導く」云云。是くの如く意得る時、九界の衆生の身を仏因と習へば、五戒即仏因なり。法華已前の経には此くの如き説なき故に、凡夫・聖人の得道は名のみ有りて実無きなり。されば此の経に云はく「但虚妄を離るゝを名づけて解脱と為す。その実は未だ一切の解脱を得ず」文。愚かなる学者は、法華已前には二乗計り色心を滅する故に得道を成ぜず、菩薩・凡夫は得道を成ずべしと思へり。爾らざる事なり、十界互具する故に妙法なり、さるにては十界に亘って二乗・菩薩・凡夫を具足せり。故に二乗に成仏せずと云はゞ、凡夫・菩薩も成仏せずと云ふ事なり。法華の意は、一界の成仏は十界の成仏なり。法華已前には仏も実仏に非ず、九界を隔てし仏なる故に。何に況んや九界をや。然るに法華の意は、凡夫も実には仏なり、十界互具の凡夫なる故に。何に況んや仏界をや。されば天台大師は一代聖教を十五遍御覧有りき。陳・隋二代の国師として造り給ひし文は、天笠・唐土・日本に、玄義・文句・止観の三十巻はもてなされたり。御師は
 

平成新編御書 ―8㌻―

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