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『一代聖教大意』


(★93㌻)
 文句に云はく「好堅、地に処して芽已に百囲せり。頻伽、(愨-心+卵)に在って声衆鳥に勝れたり」文。此の文は法華経の五十展転の第五十の功徳を釈する文なり。仏苦ろに五十展転にて説き給ふ事、権教の多劫の修行又大聖の功徳よりも、此の経の須臾結縁、愚人の随喜の功徳、百千万億倍勝れたる事経に見えつれば此の意を大師譬へを以て顕はし給へり。好堅樹と申す木は一日に百囲にて高く生ふ。頻伽と申す鳥は幼きだも諸の大小の鳥の声に勝れたり。権教の修行の久しきに諸の草木の遅く生長するを譬へ、法華の行速やかに仏に成る事を一日に百囲なるに譬ふ。権教の大小の聖をば諸鳥に譬へ、法華の凡夫のはかなきを(愨-心+卵)の声の衆鳥に勝るに譬ふ。妙楽大師重ねて釈して云はく「恐らくは人謬りて解せる者、初心の功徳の大なることを測らずして功を上位に推り、此の初心を蔑る。故に今彼の行浅く功深きことを示して以て経力を顕はす」文。末代の愚者は法華経は深理にしていみじけれども、我が機に叶はずと云ひて法を挙げ機を下して退する者を釈する文なり。又妙楽大師末代に此の法の捨てられん事を歎きて云はく「此の円頓を聞きて而も崇重せざる者は、良に近代に大乗を習へる者の雑濫するに由るが故なり。況んや像末に情澆く信心寡薄に、円頓の教法、蔵に溢れ函に盈つれども暫くも思惟せず便ち目を暝ぐに至る。徒に生じ徒に死す、一に何ぞ痛ましきや。有る人云はく、聞きて行ぜざらんは、汝に於て何ぞ預からん。此は未だ深く久遠の益を知らず。善住天子経の如きは、文殊・舎利弗に告ぐ、法を聞き謗を生じて地獄に堕つるは恒沙の仏を供養する者に勝れたり。地獄に堕つと雖も地獄より出で還って法を聞くことを得ると。此は供仏し法を聞かざる者を以て而も校量と為り。聞いて而も謗を生ずる尚遠種と為る。況んや聞いて思惟し勤めて修習せんをや」と。又云はく「一句も神に染みぬれば咸く彼岸を資く。思惟修習永く舟航に用う。随喜・見聞恒に主伴と為る。若しは取・若しは捨、耳に経て縁と成り、或は順・或は違、終に斯に因って脱す」文。私に云はく、若しは取若しは捨或順或は違の文、肝に銘ずるなり。法華翻経の後記 釈僧肇記 に云はく「什 羅什三蔵なり、
 
 

平成新編御書 ―93㌻―

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