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『一代聖教大意』


(★95㌻)
 「若し人三世一切の仏を了知せんと欲せば当に是くの如く観ずべし、心は諸の如来を造る」と。法華以前の経のおきては上品の十悪は地獄の引業、中品の十悪は餓鬼の引業、下品の十悪は畜生の引業、五常は修羅の引業、三帰五戒は人の引業、三帰十善は六欲天の引業なり。有漏の坐禅は色界無色界の引業、五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒の上に苦・空・無常・無我の観は声聞・縁覚の引業、五戒・八戒・乃至三聚浄戒の上に六度・四弘の菩提心を発こすは菩薩なり。仏界の引業なり。蔵通二教には仏性の沙汰無し、但し菩薩の発心を仏性と云ふ。別円二教には衆生に仏性を論ず、但し別教の意は二乗には仏性を論ぜず。爾前の円教は別教に附して二乗の仏性の沙汰無し。此等は皆麁法なり。
  今の妙法とは此等の十界を互ひに具すと説く時、妙法と申す。十界互具と申す事は十界の内に一界に余の九界を具し十界互具すれば百法界なり。玄義二に云はく「又一法界に九法界を具すれば即ち百法界有り」文。法華経とは別の事無し。十界の因果は爾前の経に明かす、今経は十界の因果互具をおきてたる計りなり。爾前の経意は菩薩をば仏に成るべし声聞は仏に成るまじなんど説けば、菩薩は悦び声聞はなげき人天等はおもひもかけずなんどある経も有り。或は二乗は見思を断じて六道を出でんと念ひ、菩薩はわざと煩悩を断ぜずして六道に生まれて衆生を利益せんと念ふ。或は菩薩の頓悟成仏を見、或は菩薩の多倶低劫の修行を見、或は凡夫往生の旨を説けば菩薩・声聞の為には有らずと見て、人の不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏、凡夫の往生は我が往生、聖人の見思断は我等凡夫の見思断とも知らずして四十二年は過ぎしなり。爾るに今の経にして十界互具を談ずる時、声聞の自調自度の身に菩薩界を具すれば、六度万行も修せず、多倶低劫も経ぬ声聞が、諸の菩薩のからくして修したりし無量無辺の難行道が声聞に具する間、をもはざる外に声聞が菩薩と云はる。人をせむる獄卒、慳貪なる凡夫も亦菩薩と云はる。仏も亦因位に居して菩薩界に摂せられ、妙覚ながら等覚なり。薬草喩品に声聞を説いて云はく「汝等が所行は是菩薩の道なり」と。又我等六度をも行ぜざるが六度満足の菩薩なる文、
 
 

平成新編御書 ―95㌻―

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