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『一代聖教大意』


(★99㌻)
 外典開会の文は「若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも皆正法に順ぜん」文。兜率開会の文、人天所開会の文しげきゆへにいださず。此の経を意得ざる人は経の文に此の経を読みて人天に生ずと説く文を見、或いは兜率・・利なんどにいたる文を見、或は安養に生ずる文を見て、穢土に於て法華を行ぜば、経はいみじけれども行者不退の地に至らざれば穢土にして流転し、久しく五十六億七千万歳の晨を期し、或は人畜等に生じて隔生する間、自らの苦しみ限り無しなんど云云。或は自力の修行なり難行道なり等云云。此は恐らくは爾前法華の二途を知らずして自身癡闇に迷ふのみに非ず一切衆生の仏眼を閉づる人なり。兜率を勧めたる事は小乗経に多し。少しは大乗経にも勧めたり。西方を勧めたる事は大乗経に多し。此等は皆所開の文なり。
  法華経の意は、兜率に即して十方仏土中、西方に即して十方仏土中、人天に即して十方仏土中云云。法華経は悪人に対しては十界の悪を説けば悪人五眼を具しなんどすれば悪人のきわまりを救ひ、女人に即して十界を談ずれば十界皆女人なる事を談ず。何にも法華円実の菩提心を発こさん人は迷ひの九界へ業力に引かる事無きなり。此の意を在じ給ひけるやらん。法然上人も一向念仏の行者ながら選択と申す文には雑行・難行道には法華・大日経等をば除かれたる所も有り、委しく見よ。又慧心の往生要集にも法華経を除きたり。たとい法然上人・慧心、法華経を雑行難行道として末代の機に叶はずと書し給ふとも、日蓮は全くもちゆべからず。一代聖教のおきてに違ひ、三世十方の仏陀の誠言に違する故に。いわうやそのぎ無し。而るに後の人々の消息に、法華経を難行道、経はいみじけれども末代の機に叶はず、謗ぜばこそ罪にても有らめ、浄土に至りて法華経をば覚るべしと云云。日蓮の心はいかにも此の事はひが事と覚ゆるなり。かう申すもひが事にや有るらん。能く能く智人に習ふべし。
  正嘉二年二月十四日                    日蓮撰
 
 

平成新編御書 ―99㌻―

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