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『守護国家論』


(★147㌻)
 又云はく「一闡提と作らず、善根を断ぜず、是くの如き等の涅槃経典を信ずるは爪上の土の如く、乃至一闡提と作り、諸の善根を断じ、是の経を信ぜざるは十方界所有の地の土の如し」已上経文。 此の文の如くば法華・涅槃を信ぜずして一闡提と作るは十方の土の如く、法華・涅槃を信ずるは爪上の土の如し。此の経文を見て弥感涙押さへ難し。今日本国の諸人を見聞するに多分は権教を行ず。設ひ身口には実教を行ずと雖も心には亦権教を存す。故に天台大師摩訶止観の五に云はく「其の癡鈍なる者は毒気深く入って本心を失ふが故に、既に其れ信ぜざるは則ち手に入らず、乃至大罪聚の人なり。乃至設ひ世を厭ふ者も下劣の乗を翫び枝葉に攀附し、狗、作務に狎れ、獼猴を敬ふて帝釈と為し、瓦礫を崇んで是明珠なりとす。此の黒闇の人豈道を論ずべけんや」已上。 源空並びに所化の衆深く三毒の酒に酔ふて大通結縁の本心を失ふ。法華・涅槃に於て不信の思ひを作し一闡提と作り、観経等の下劣の乗に依って方便称名等の瓦礫を翫び、法然房の獼猴を敬ふて智慧第一の帝釈と思ひ、法華・涅槃の如意珠を捨てゝ、如来の聖教を褊するは権実二教を弁へざるが故なり。故に弘決の第一に云はく「此の円頓を聞いて宗重せざる者は良に近代大乗を習ふ者の雑濫に由るが故なり」と。大乗に於て権実二教を弁へざるを雑濫と云ふなり。故に末代に於て法華経を信ずる者は爪上の土の如く、法華経を信ぜずして権教に堕落する者は十方の微塵の如し。故に妙楽歎いて云はく「像末は情澆く信心寡薄にして円頓の教法蔵に溢れ函に盈つれども暫くも思惟せず。便ち目を瞑ぐに至る。徒に生じ徒に死す。一に何ぞ痛ましきかな」已上。 此の釈は偏に妙楽大師権者たるの間、遠く日本国の当代を鑑みて記し置く所の未来記なり。問うて云はく、法然上人の門弟の内にも一切経蔵を安置し法華経を行ずる者有り。何ぞ皆謗法の者と称せんや。答へて曰く、一切経を開き見て法華経を読むは、難行道の由を称し選択集の悪義を扶けんが為なり。経論を開くに付いて弥謗法を増すこと例せば善星の十二部経・提婆達多の六万蔵の如し。智者の由を称するは自身を重んじ悪法を扶けんが為なり。
 

平成新編御書 ―147㌻―

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