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『守護国家論』


(★149㌻)
 悪象の為に殺されては三趣に至らず、悪友の為に殺されては必ず三悪に至る。是の悪象等は但身の怨と為る、悪知識は善法の怨と為らん。是の故に菩薩常に当に諸の悪知識を遠離すべし」已上。
  請ひ願はくは今の世の道俗、設ひ此の書を邪義なりと思ふと雖も且く此の念を抛ちて十住毘婆沙論を開き、其の難行の内に法華経の入不入を検へ、選択集の「準之思之」の四字を按じて後に是非を致せ。謬りて悪知識を信じ邪法を習ひ此の生を空しうすること莫れ。
  第三に正しく末代の凡夫の為の善知識を明かさば、問うて云はく、善財童子は五十余の知識に値ひき。其の中に普賢・文殊・観音・弥勒等有り。常啼・班足・妙荘厳・阿闍世等は曇無竭・普明・耆婆・二子・夫人に値ひ奉りて生死を離れたり。此等は皆大聖なり。仏世を去りての後是くの如きの師を得ること難しと為す。滅後に於て亦竜樹・天親も去りぬ。南岳・天台にも値はず。如何ぞ生死を離るべきや。答へて曰く、末代に於て真実の善知識有り。所謂法華・涅槃是なり。問うて云はく、人を以て善知識と為すは常の習ひなり。法を以て知識と為すの証有りや。答へて云はく、人を以て知識と為すは常の習ひなり。然りと雖も末代に於ては真の知識無ければ法を以て知識と為すに多くの証有り。摩訶止観に云はく「或は知識に従ひ、或は経巻に従ひて、上に説く所の一実の菩提を聞く」已上。 此の文の意は経巻を以て善知識と為すなり。法華経に云はく「若し法華経を閻浮提に行じ受持すること有らん者は応に此の念を作すべし。皆是普賢威神の力なり」已上。 此の文の意は末代の凡夫法華経を信ずるは普賢の善知識の力なり。又云はく「若し是の法華経を受持し読誦し正憶念し修習し書写すること有らん者は、当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼仏を見るなり。仏口より此の経典を聞くが如し。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり」已上。 此の文を見るに法華経は釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り、此の経を信ずる者の前には滅後たりと雖も仏の在世なり。又云はく「若し我成仏して滅度の後、
 

平成新編御書 ―149㌻―

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