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『守護国家論』


(★158㌻)
 或は権教には学者多く、実教には智者少なし。是非に就いて万が一も実教を信ずる者有るべからず。是の故に此の一段を撰んで権人の邪難を防がん。
  問うて云はく、諸宗の学者難じて云はく「華厳経は報身如来の所説、七処八会皆頓極頓証の法門なり。法華経は応身如来の所説、教主既に優劣有り。法門に於て何ぞ浅深無からん。随って対告衆も法慧・功徳林・金剛幢等なり。永く二乗を雑へず。法華経は舎利弗等を以て対告衆と為す」華厳宗の難。法相宗の如きは解深密経等を以て依憑と為して難を加へて云はく「解深密経は文殊・観音等を以て対告衆と為す。勝義生菩薩の領解には一代を有・空・中と詮す。其の中とは華厳・法華・涅槃・深密等なり。法華経の信解品の五時の領解は四大声聞なり。菩薩と声聞と勝劣天地なり」と。浄土宗の如きは道理を立てゝ云はく「我等は法華等の諸経を誹謗するに非ず。彼等の諸経は正には大人の為、傍には凡夫の為にす。断惑証理・理深の教にして末代の我等之を行ずるに千人の中に一人も彼の機に当たらず、在家の諸人多分は文字を見ず、亦華厳・法相等の名を聞かず。況んや其の義を知らんや。浄土宗の意は我等凡夫は但口に任せて六字の名号を称すれば、現在には阿弥陀如来二十五の菩薩等を遣はして身に影の随ふが如く、百重千重に行者を囲繞して之を守りたまふ。故に現世には七難即滅七福即生し、乃至臨終の時は必ず来迎有りて観音の蓮台に乗じ、須臾の間に浄土に至り、業に随って蓮華開け、法華経を聞いて実相を覚る。何ぞ煩はしく穢土に於て余行を行じて何の詮か有る。但万事を抛ちて一向に名号を称せよ」云云。禅宗等の人云はく「一代聖教は月を指す指なり。天地日月等も汝等が妄心より出でたり。十方の浄土も執心の影像なり。釈迦十方の仏陀は汝が覚心の所変なり。文字に執する者は株を守る愚人なり。我が達磨大師は文字を立てず、方便を仮らず、一代聖教の外に仏迦葉に印して此の法を伝ふ。法華経等は未だ真実を宣べず」已上。 此等の諸宗の難一に非ず。如何ぞ法華経の信心を壊らざるべしや。答へて云はく、法華経の行者は心中に、
 

平成新編御書 ―158㌻―

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