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『立正安国論』


(★243㌻)
 寺毎に三日巡輪すること絶えず。同二年回鶻国の軍兵等唐の堺を侵す。同三年河北の節度使忽ち乱を起こす。其の後大蕃国更た命を拒み、回鶻国重ねて地を奪ふ。凡そ兵乱は秦項の代に同じく、災火邑里の際に起こる。何に況んや武宗大いに仏法を破し多く寺塔を滅す。乱を撥むること能はずして遂に以て事有り」已上趣意。
  此を以て之を惟ふに、法然は後鳥羽院の御宇、建仁年中の者なり。彼の院の御事既に眼前に在り。然れば則ち大唐に例を残し吾が朝に証を顕はす。汝疑ふこと莫れ汝怪しむこと莫れ。唯須く凶を捨てゝ善に帰し源を塞ぎ根を截るべし。
  客聊和らぎて曰く、未だ淵底を究めざれども数其の趣を知る。但し華洛より柳営に至るまで釈門に枢楗在り、仏家に棟梁在り。然れども未だ勘状を進らぜず、上奏に及ばず。汝賤しき身を以て輙く莠言を吐く。其の義余り有り、其の理謂れ無し。
  主人の曰く、予少量たりと雖も忝くも大乗を学す。蒼蠅驥尾に附して万里を渡り、碧蘿松頭に懸かりて千尋を延ぶ。弟子、一仏の子と生まれて諸経の王に事ふ。何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起こさざらんや。その上涅槃経に云はく「若し善比丘ありて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遺し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遺し呵責し挙処せば是我が弟子、真の声聞なり」と。余、善比丘の身たらずと雖も「仏法中怨」の責を遁れんが為に唯大綱を撮って粗一端を示す。其の上去ぬる元仁年中に、延暦・興福の両寺より度々奏聞を経、勅宣御教書を申し下して、法然の選択の印板を大講堂に取り上げ、三世の仏恩を報ぜんが為に之を焼失せしめ、法然の墓所に於ては感神院の犬神人に仰せ付けて破却せしむ。其の門弟隆寛・聖光・成覚・薩生等は遠国に配流せられ、其の後未だ御勘気を許されず。豈未だ勘状を進らぜずと云はんや。
 

平成新編御書 ―243㌻―

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