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『教機時国抄』


(★270㌻)
 此の一切の経律論の中に小乗・大乗・権経・実経・顕教・密教あり。此等を弁ふべし。此の名目は論師人師よりも出でず、仏説より起こる。十方世界の一切衆生一人も無く之を用ふべし。之を用ひざる者は外道と知るべきなり。阿含経を小乗と説く事は方等・般若・法華・涅槃等の諸大乗経より出でたり。法華経には「一向に小乗を説きて法華経を説かざれば仏慳貪に堕すべし」と説き給ふ。涅槃経には「一向に小乗経を用ひて仏を無常なりと云はん人は舌口中に爛るべし」云云。
  二に機とは、仏教を弘むる人は必ず機根を知るべし。舎利弗尊者は金師に不浄観を教へ、浣衣の者には数息観を教ふる間、九十日を経て所化の弟子仏法を一分も覚らずして、還って邪見を起こし一闡提と成り畢んぬ。仏は金師に数息観を教へ、浣衣の者に不浄観を教へたまふ。故に須臾の間に覚ることを得たり。智慧第一の舎利弗すら尚機を知らず。何に況んや末代の凡師機を知り難し。但し機を知らざる凡師は所化の弟子に一向に法華経を教ふべし。問うて云はく、無智の人の中にして此の経を説くこと莫れとの文は如何。答へて云はく、機を知るは智人の説法する事なり。又謗法の者に向かっては一向に法華経を説くべし。毒鼓の縁と成さんが為なり。例せば不軽菩薩の如し。亦智者と成るべき機と知らば必ず先づ小乗を教へ、次に権大乗を教へ、後に実大乗を教ふべし。愚者と知らば必ず先づ実大乗を教ふべし。信謗共に下種と為ればなり。
  三に時とは、仏教を弘めん人は必ず時を知るべし。譬へば農人の秋冬田作るに種と地と人の功労とは違はざれども一分も益無く還って損す、一段を作る者は少損なり、一町二町等の者は大損なり、春夏耕作すれば上中下に随って皆分々に益有るが如し。仏法も亦復是くの如し。時を知らずして法を弘むれば益無き上還って悪道に堕するなり。仏出世し給ふて必ず法華経を説かんと欲するに、縦ひ機有れども時無きが故に四十余年此の経を説きたまはず。故に経に云はく・「説時未だ至らざるが故なり」等云云。仏の滅後の次の日より正法一千年は持戒の者は多く破戒の者は少なし。
 

平成新編御書 ―270㌻―

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