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『法華真言勝劣事』


(★306㌻)
 然りと雖も他縁・覚心・極無自性の三句を法相・三論・華厳に配する名目は之無し。其の上覚心不生と極無自性との中間に如実一道の文義共に之無し。但し此の品の初めに「云何なるか菩提、謂はく如実に自心を知る」等の文之有り。此の文を取って此の二句の中間に置いて天台宗と名づけ華厳宗に劣るの由之を存す。住心品に於ては全く文義共に之無し。有文有義無文有義の二句を虧く信用に及ばず。菩提心論の文に於ても法華・華厳の勝劣都て之を見ざる上、此の論は竜猛菩薩の論といふ事上古より諍論之有り。此の諍論絶えざる已前に亀鏡に立つる事は竪義の法に背く。其の上善無畏・金剛智等評定有って大日経の疏・義釈を作れり。一行阿闍梨の執筆なり。此の疏・義釈の中に諸宗の勝劣を判ずるに法華経と大日経とは広略異なりと定め畢んぬ。空海の徳貴しと雖も争でか先師の義に背くべきやと云ふ難此強し。 此安然の難なり。 之に依って空海の門人之を陳するに旁陳答之有り。或は守護経、或は六波羅蜜経、或は楞伽経、或は金剛頂経等に見ゆと多く会通すれども総じて難勢を免れず。然りと雖も東寺の末学等大師の高徳を恐るゝの間、強ちに会通を加へんと為れども結句会通の術計之無く、問答の法に背いて伝教大師最澄は弘法大師の弟子なり云云。又宗論の甲乙等旁論ずる事之有り云云。
  日蓮案じて云はく、華厳宗の杜順・智儼・法蔵等法華経の始見今見の文に就いて法華・華厳斉等の義之を存す。其の後澄観始今の文に依って斉等の義を存すること祖師に違せず。其の上一往の弁を加へ法華と華厳と斉等なり。但し華厳は法華経より先なり。華厳経の時仏最初に法慧・功徳林等の大菩薩に対して出世の本懐之を遂ぐ。然れども二乗並びに下賤の凡夫等根機未熟の故に之を用ひず。阿含・方等・般若等の調熟に依って還って華厳経に入らしむ。此を今見の法華経と名づく。大陣を破るに余残堅かるざるが如し等。然れば実に華厳経は法華経に勝れたり等云云。本朝に於て勤操等に値ひて此の義を習学して後、天台真言を学すと雖も旧執を改めざるが故に此の義を存するか。何に況んや華厳経の法華経に勝るの由は陳隋より已前南三北七皆此の義を存す。天台已後も又諸宗此の義を存せり。
 

平成新編御書 ―306㌻―

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