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『聖愚問答抄㊤』


(★404㌻)
 禅宗は法華経は吐きたるつばき、月をさす指、教網なんど下す。小乗律等は法華経は邪教、天魔の所説と名づけたり。此等豈謗法にあらずや。責めても猶あまりあり、禁めても亦足らず。
  愚人云はく、日本六十余州人替はり法異なりといへども、或は念仏者或は真言師或は禅或は律、誠に一人として謗法ならざる人はなし。然りと雖も人の上沙汰してなにかせん。只我が心中に深く信受して、人の誤りをば余所の事にせんと思ふ。聖人示して云はく、汝が言ふ所実にしかなり。我も其の義を存ぜし処に、経文には或は不惜身命とも或は寧喪身命とも説く。何故にかやうには説かるゝやと存ずるに、只人をはゞからず経文のまゝに法理を弘通せば、謗法の者多からん世には必ず三類の敵人有りて命にも及ぶべしと見えたり。其の仏法の違目を見ながら我もせめず国主にも訴へずば、教へに背きて仏弟子にはあらずと説かれたり。涅槃経第三に云はく「若し善比丘あって法を壊らん者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし是の人は仏法中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是我が弟子真の声聞なり」と。此の文の意は仏の正法を弘めん者、経教の義を悪しく説かんを聞き見ながら我もせめず、我が身及ばずば国主に申し上げても是を対治せずば、仏法の中の敵なり。若し経文の如くに、人をもはゞからず、我もせめ、国主にも申さん人は、仏弟子にして真の僧なりと説かれて候。されば仏法中怨の責めを免れんとて、かやうに諸人に悪まるれども命を釈尊と法華経に奉り、慈悲を一切衆生に与へて、謗法を責むるを心えぬ人は口をすくめ眼を瞋らす。汝実に後世を恐れば身を軽しめ法を重んぜよ。是を以て章安大師云はく「寧ろ身命を喪ふとも教を匿さゞれとは、身は軽く法は重し身を死して法を弘めよ」と。此の文の意は身命をばほろぼすとも正法をかくさゞれ。其の故は身はかろく法はおもし、身をばころすとも法をば弘めよとなり。悲しいかな生者必滅の習ひなれば、設ひ長寿を得たりとも終には無常をのがるべからず。今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢なり。悲想の八万歳未だ無常を免れず。・利の一千年も猶退没の風に破らる。
 

平成新編御書 ―404㌻―

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